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第一章 社会民度の低下 第三節「社会性の崩壊」
この論考は端的な現象をあげれば、引きこもり等の個人的な現象として出てきている因子ではないかと思う事についてだ。ただここでは引きこもりについては語ることは無い。
さてこの稿の骨子は人々をみて感じ、多数の観察を試みて確信にいたった「現代社会人は人と喜びを分かち合えない」「集団としての喜びを持てない」「人と心を同じくして目的を持てない」人々についてだ。
人と喜びを分かち合えない人は、次に示すいくつかの現象として現れるように思う。
@ 家庭的な幸せを得ようとしても伴侶と心を一つにできにくい為に迷いや寂しさを生じる傾向にある。
A 人の痛みより自分の事について感心が高く、口では良いように言っても行動は保身的。
B 家族間においても家族としての心を重視せず、個人の考えだからと責任回避してしまう傾向。
C 職場においても協調性を欠き無感動無関心な態度がほとんど。
D 精神性を重視せず幼児心が抜けない。
E 責任を取りたがらず大人になりたくない傾向。
F 身の回りの事や常識的な行動にメリハリがなく頼り難く感じさせる。
G 自分は不幸を背負っていると考える傾向がある。
八項目つらつらと要点をあげてみたが、その他にもあげることのできる特徴や傾向があると思う。人と喜びを分かち合えない人の特徴は、自己保身性が強いあまりに人の信用を得難く、結果として不幸に向かう性質があると言わざるをえまい。このような未熟な心の人種が増えて行けば当然として社会は力を失い崩壊する。
これは社会の悲惨であり、私たちの苦痛である。
さらに集団としての喜びを持てない、人と心を同じくして目的を持てないという部分まで暗く深みに嵌っていているならば、社会的信用を失うばかりではなく、現在の基盤すら失いかねない。
もし貴方が上に上げ綴ってきた事に、当てはまるのであれば自己改革が必要と思われる。
自己改革を行う者は精神の勇者であり、自己克服の勝利への第一歩である。
自己改革を行う第一歩は、テレビなど無思考に時間を奪われるを防ぐが肝要であり、家族への挨拶、家族との会話、仕事の計画などを思考し整理する。このあたりから始めるのが良い。ほかの稿でも書いたがいきなり難しい挑戦をするのは続かない問題であり、持久力を自分の中に育てる目的を有する。
自分の中に持久力を育てる、つまり堅忍持久の精神を養うわけだが、それらの土台の上に貴方の才能を育てて行くことが望ましい。
それらがどの程度、育ってきているかを知るには神道祭礼に参加してみるが良い。
清浄さ、折り目正しさ、粛々と感謝の心を持ち、神道礼法に則って行われる儀式は美しい。虚飾を省いた自然なる美しさが神道であり、正直、清浄、赤き直き心を大事にしている。
その中に身を浸し共に祈る。
その刹那、心に映るが汝であり今の力量である。謙虚に自己の力量を測れるものは慧眼の主であり、謙譲の徳である。
謙虚さを守っていただくのも神様の御厳である。
自己啓発の第一歩について書いてきたが、その目線を家庭内の子供に移してみたいと思う。そこで相談者との会話による傾向を参考にしてみたいと思う。
それによると・・・
@ 家事手伝いをあまりしたことが無く自侭な生活習慣
A 自由になる時間をゲームやテレビ番組に費やす傾向
B 人間として基礎素養を教わられない環境
C しっかり向かい合い叱ってくれる人がいない場合
D 家庭内に会話をする習慣が少ない場合
E 家庭での年中行事、祭礼、先祖供養を大事に考えない傾向
F 言葉の乱れを訂正し指導しない環境
G 生活の中での規則正しい習慣と礼儀を実践できない環境
H 町内や村内の祭礼行事や催事などに参加しない
ほかにも傾向の要点はあるが、上記九点のいくつかまたはすべてに該当する子供時代を送った人が「集団としての喜びを持てない」「人と心を同じくして目的を持てない」場合が多いようだ。
子供が社会性の喪失した大人になって欲しくないと思うならば、可能な限り躾けをし娯楽より人間的な徳性を磨くことを中心にくるような教育を施すことが望ましい。
子供は神様からの預かり物であり、人間としての徳ある生き方を学ばせた上で、人間として心正しい判断材料が子供の中に確かに存在している段階で、一人の人として立てれるお稽古をして行くことが望ましい。
一人の人間としてのお稽古は、許容範囲(何とかしてあげれる範囲)の悪さやいたずら、見ていて失敗しそうなことを先に止めるのではなく、行わせてみてどうして失敗したのか、それをしたら相手はどのような気持ちになるのか、物の命を粗末にしていないか?、嘘をつくことが人間の生き方なのか?、を子供に問いながら自分は人間としてこう思っているよと諭してあげ、子供に考えさせ間違いを正してあげるのも親の役目だと思う。
注意して欲しいのは心正しい判断ができず、未熟な段階で個人の自由を気取り子供に判断を任せてしまうのは先々において無理が生じる。この事はしっかり心に留めておいてほしい。未熟な者に個人判断をさせることこそ、我侭な素地を作ってしまう因子となる様に思う。
間違いは間違いであり、正しさは正しい。こういった折り目正しい判断をするには親の側に人間としての深い学びが必要である。しかしこういった教育を親から受けた経験のある者ならばわかる道理であるが、最低限親様をなめる事などはできないものである。
そういった素地を子供の時より体験させることで、社会に対する心構えが自然出来上がる。子供の教育とは親自身が子供教育を種として自分自身を磨き上げる神からの宿命である。