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第一章 社会民度の低下 第二節「父から子へ子から孫へ伝承の崩壊」

 草深くも青垣の麗しい備中に私は住んでいる。そういった郷中で神官のお勤めをさせていただいている。現時点で和源のお勤めは祭礼より相談や占いが多いという風な中の体験を通し、また世の中を観察したり調査したことを書いてみよう。
 遠近よりお年の方が来られ御相談にあたっている時折に「近頃の若けぇもんは・・・」とこぼされる方がいる。大抵は愚痴なのだが、社会常識や礼儀を知らないとのお言葉を聴くときがある。
 愚痴をこぼす人に限って(私から見てだが)、当の本人が礼儀を知らない場合が多いように思う。そのような人をみて心の中でいつも思う、自らが出来ていない人がどうやって指導しようとするのだろう?、と。
 なにやら愚痴話から入ってしまったが、この稿の端的な部分でもある。高度経済成長期をまっしぐらに走ってきた方々の苦労はなかなかの物であったと思う。忙しさの中で家庭や文化的なことを置いて来たこともまた事実である。その結果として子や孫の世代と隔世の観を生み出したと言わざるをえまい。
 たとえば親〜子〜孫の間に共通の話題や体験がどのくらいあるのであろうか?。数少ないそういった共通の地域や村行事、神社祭礼などで大人たちは子供たちに日本文化を感じさせる行動を子や孫へ見せてきたのであろうか?。
 あるとき相談事についてきた女の子に「先生は着物を着ているけど、他のとこのお祭りでおじいちゃんたちはなぜ着物を着ないの?。」と。真実を突いているその言葉であった。
 子供の目線から考えて見なくては、この後さらに先に紹介した愚痴をこぼさなくてはならない人が確実に増えるだろう。それを文化伝承の崩壊と考えて差し支えない。
 はたして親は孫に正しく風習を伝えることができるだろうか?。
 子は孫に人間の正しき有り様を教えることができるのだろうか?。
 文化や風習を通して体験できる共通認識がどこまでできるのだろうか?。
 親から子へ子から孫へ伝わる日本人としての基盤が失われたとき、そこにあるのは血のつながったあかの他人が存在するのみと言っても過言ではないだろう。
 共通の基盤が失われていっている現在、その崩壊の足音を心ある人ならばそれに心痛めておられることであろう。
 心ある人よ、できうることから始めようではないか。
 自由とはすばらしい。しかし過度の自由は奢り高ぶりを生じ、やがて争いを生む。
 自由とはそれと同じ分量の自己を戒める精神力が必要である。そうしなければ自由は破壊を招く感情でしかない。
 また人間は意志の力で自己を変え状況を好転させる力がある。
 もし貴方が決意し始めようとするならば、祭日など暦のいわれを調べて準備し、当日和装を身に付け家族共に祝いまたは感謝する行事を再開して行くこと。そんなところからすべては始まってゆくのです。
 力んでいてはうまくいきません。
 自然に・・・人間としていま此処にある幸せを感謝する、当然のおこないを暦の力を借りるのです。
 難しいことではないのです。ただ己の中の怠惰な気持ちに打ち勝つことが家族の絆を深める最初の一歩となるでしょう。
 日本文化の素晴らしい点は、祭日祭礼において何においてもまず、神様やご先祖様または自然であり命であるすべてに感謝する風習。
 奢り高ぶりやすい人間に、感謝を忘れないための先祖からの習慣という贈り物。先祖からの贈り物を絶やしていった先が、心のつながりの無い家族であり地域社会であるのです。
 先人の知恵はありがたくあるのです。