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第一章 社会民度の低下 第十一節 「家庭教育の崩壊」

家庭は本来、人が一番安らぎや安心感を持つ最小単位の組織であり、構成単位である。身近だから何でも良いというわけではないだろう。身近だからこそ親しき仲にも礼儀ありと。
家庭教育とは社会に出てからの、個人の行動基盤の物であり道徳である。
それら無形の日本の家庭であれば、自然に行って伝承された家庭教育が崩壊しつつある。
心ある貴殿ならば町の風景の中で多々と感じていることであろうが、子供の精神の未熟さや不安定さ、子供躾け場面での感情的に叱り付ける未熟な親、子供を深夜につれ回しコンビニなどでたむろして話しこむ親、何が正しい道なのか子供に伝わるはずが無い。まさに親の世代が・・・いや祖父母の世代が高度道徳的に精神的に崩壊していると言うべきなのか?。
あげく子供と友達感覚で接する親。子供と友達感覚で接して子供の心にあるのは、媚を売る自分より下の人間と判断するだけである。そうしてある程度体だけ大きくなった子供が、平気で親を撲打する。
このような事が現実に起こっている社会で、貴方はまだ自分だけは安全と思っていないか?。自分だけは安全と思っているならば、それは危険だと申しておこう。何故ならば子供時代に親に包まれ守ってもらっていた安心感から飛び出て、大人の精神へ成長が不十分だからだ。
この世の中に自分だけが安全ということは無い。そういう段階から自己の行動を徹底させなければ到底、精神的に塩気があるとはいえない。
子供お稽古や道徳学習や神官資格講座などを行っている関係から、教育について研究と実績を積んでいる現在だから、我が家の源家武士道の伝えている精神性は間違いではないと確信している。
我が家の武士道では幼稚心を見極めるを心するようにある。当然ながら戦いとなればあらゆる想定をしておいて、状況によって即応しなくてはならず、相手がこのように来てくれれば・・・などと考えては逆手を突かれてしまう。判断や準備の根底に幼稚心があればそれだけ甘い判断になってしまう。甘い判断は当然のことながら家庭教育にも影響があるだろう。
子供を大切に思う心は自然であり当然である。が、しかし大切に思うからこそ躾けは筋の通った厳しさが必要に思う。筋の通った厳しさは自分の自己向上を怠けていては伝わらない。弟子を育てるのも子供を育てるのも師弟と親子の違いはあるが切磋琢磨の連続であり要綱は精進である。
人間の行動に美しさがあること、これをすばらしいものと考えなくては人間社会は地獄に成り果ててしまうだろう。
 人のために尽くした人間、人のために進んで犠牲になった人間、そういった人々を称えることの出来る精神は、人を認めれる許容ある心でありすばらしいものだ。美しき行いをした人間を美しいと認めることが無意味な自尊心から脱却する一歩である。自分が弱い人間であると認識できる人は成長努力を欠かさない努力を持ちやすく、堅忍持久の精神こそ多少の才能を凌駕するものである。