浦上氏関連人物
浦上氏関連の人物を紹介していきます。
今は浦上宗景家臣しかいません。
情報どんどん受け付けてます^^
浦上宗景家臣団
☆赤枝光国(????年〜????年)
浦上宗景家臣。通称・弥三右衛門尉。1570年に上寺山余慶寺本堂を再建した。
☆明石景親(????年〜????年)
浦上宗景独立時からの家臣。飛騨守。
1571年に日笠頼房とともに、敵対していた赤松広貞のもとへ宗景の使者として行き、
和平交渉を行っている。1575年の天神山城合戦の際は宇喜多側に寝返り、天神山城
落城の要因となった。その後宇喜多家臣として、小田原攻めなどで功をあげた。
☆宇喜多直家(1529年〜1581年)
こちらへどうぞ。
☆大田原長時(????年〜????年)
浦上宗景独立時からの家臣。通称・与三左衛門尉。
和気郡・邑久郡・播磨赤穂郡などで1万8千石を領した。
1568年に備前の港「片上」と「浦伊部」の間で起こった境目争いを、他の老臣らとともに
仲裁にあたった。主家滅亡の際は、主君宗景を守って播磨へ逃れたという。
☆岡本氏秀(????年〜????年)
浦上宗景独立時からの家臣。通称・太郎左衛門。
大田原、服部、日笠、明石、延原らと並ぶ浦上氏の老臣で、宗景の奉行として活躍。
主家滅亡時も、宗景の播磨脱出に従った。
☆小嶋一頼(????年〜????年)
浦上宗景家臣。左馬允。
他の重臣らとともに宗景の奉行として活躍。1571年に宗景の使者として赤松広貞と
和平交渉を行っている。
☆後藤勝基(????年〜1579年)
こちらへどうぞ(準備中)。
☆笹部勘二郎(????年〜1579年)
浦上宗景重臣。入道後は勘斎と号した。
備前赤磐郡の周匝茶臼山城主。天文年間に尼子勢が浦上領に侵攻すると、
備前北東部を守りこれを阻止。宇喜多直家謀叛の際も浦上方として戦うが、
居城を攻められ嫡子とともに討死した。
☆島村盛実(????年〜1559年)
浦上宗景重臣。豊後守。入道後は観阿弥と号した。
1534年に旧主村宗の遺命として、砥石城の宇喜多能家を急襲して自害させる。
その後、備中勢に内通しているとして、能家の孫・直家に討たれる。
☆中山信正(1510年〜1559年)
浦上宗景家臣。備中守。備前亀山城主。
1549年に主君・宗景の提案で娘を宇喜多直家に嫁がせる。
しかし、1559年に備中勢に内通しているとして婿の直家に謀殺された。
直家に嫁いだ娘も自害した。
☆延原景能(????年〜????年)
浦上宗景独立時からの家臣。
各地の合戦に従軍し、知勇兼備の士と評された。
主家滅亡後は宇喜多氏に仕え、美作の浦上氏残党討伐に功をあげた。
☆服部久家(????年〜????年)
浦上宗景独立時からの家臣。備後守。
邑久郡福岡庄服部郷の出身。
1567年に宗景の使者として赤松氏のもとへ行くなど、外交面で浦上氏を支えた。
直家謀叛の際は、浦上方として戦った。
☆馬場右近大夫(????年〜????年)
浦上宗景家臣。
1575年に宗景の使者として阿波の三好氏のもとへ派遣される。
☆日笠頼房(????年〜1582年)
浦上宗景家臣。日笠青山城主。
1560年代に宗景の家臣となり、その後重要される。
宇喜多直家謀叛後も浦上氏に味方し、宇喜多軍を撃退するなど戦功をあげた。
その後、天神山城が落城し宗景が播磨に落ち延びると、頼房もこれに従った。
1582年に不慮の最期を遂げた。