1529年、砥石城に宇喜多興家の長男として誕生する。幼名・八郎。
砥石城は、備前国邑久郡にあり、砥石山の山頂部に所在する連郭式山城で、
総延長約250メートルにわたって城郭施設が構築されている。
八郎6歳のとき、砥石山城からわずか1.2キロしか離れていない
高取山城城主・島村観阿弥が、砥石城に夜襲をかけ、祖父・能家は自害。
八郎は父・興家とともに城を脱出した(島村観阿弥の父・島村弾正左衛門は
家中一の猛将で、能家とは先陣争いをした仲だった。しかし摂津・天王寺合戦で
討死。この時能家は居城に隠退していてこの合戦には不参戦だった。観阿弥は、
生きて功労に輝く能家を憎く思っていた)。
親子は各地を放浪し、備前福岡にたどりついた。ここで福岡の豪商で縁者である
阿部善定の元に身を置くことになった。この間、父・興家は阿部氏の娘を妾とし、
のちの忠家と春家を誕生させた。
1536年、父・興家死去。八郎は叔母と母の元で養育されることになった。
これは、直家(八郎)が10歳のころの話です。
八郎は7、8歳の頃までは人並み優れて賢明な子であったが、
10歳を越えてからは、暗愚な父・興家より更に愚鈍になり、
近辺の者たちから嘲笑われていた。
母はこの様子を見、宇喜多家再興を期待していた八郎に失望した。
そんな母の様子を見た八郎は、人がいないのを見て母に、
「私が暗愚になったのは決して真実ではありません。私は成人して
浦上家に仕え、やがて祖父の仇を討つつもり。
しかし私が賢いと感づいたならば、仇の観阿弥はよもや私を生かして
はいないでしょう。父の興家も愚かであったからこそ、その難を逃れる
ことが出来た。私が父にならって愚か者を装っているのもそのためです」
と語ったという。 |

1543年、浦上宗景夫人に仕えている母のとりなしによって、八郎は浦上宗景に仕える
ことになった。
同年、播磨の赤松晴政が浦上領に侵攻し、宗景の城を二、三ヶ所攻め落としたので、宗景も
播磨に出兵し赤松方の城を二ヶ所攻め落とした。この合戦が八郎の初陣で、兜首一つをとった
ので宗景からその武功を賞せられた。その後も軍功があったので、翌年、元服して「宇喜多
三郎左衛門直家」と名乗り、邑久郡乙子村で知行300貫の地を賜った。
当時、邑久郡乙子村付近は吉井川の下流の穀倉地帯を狙って、金川の松田氏や
四国の細川氏の動きが活発で、また、犬島辺りを本拠とする海賊もしばしば民家を略奪した。
宗景はこれに対応するため乙子山に城を築いたが、この地は本拠天神山城に遠く、
また、敵地に近いという悪条件なので、家臣の中でこの重責をかってでる者がなかった。
そこへ直家が自らこの地の統治を志願したので、家臣は誰一人反対する者がなかった。
直家が乙子城主になると、譜代の宇喜多家臣が次々と帰参を申し出てきた。岡、戸川、
長船といった、のち「宇喜多三老」となる彼らもこのとき帰参した。
直家が預けられた足軽は30人で、周囲の敵はたびたび乙子城に攻めてきたが、しかし
直家や足軽たちは勇猛果敢に戦い、時には出撃して敵の根拠地を突く等、いささかも
怯まなかった。そのため、宗景からその戦功を賞されて三千石の所領を与えられた。
しかし当時の直家は、所領が少なく兵数が多かったので兵糧不足になりがちで、そのため
戸川平介、長船又三郎、岡平内をはじめ、家臣のものたちは自ら耕作し、近郊に出向い
て夜盗・辻斬りなどを行い、兵糧を蓄えた。それでも不足すれば、絶食して米を節約し、
出陣の時の兵糧とした。【つづく】
1、宇喜多家滅亡
2、浦上家へ仕官