郷社トップへ 沿革と足次郷
 KURAKAKE

2大起源説
高天原系祭神説
安須波之神(足次)は志理都紀斗賣命(シリツキトメノミコト)を主祭神としている。
志理都紀斗賣命は第12代景行天皇(西暦71年)の皇子五百城入彦の妃で、父は日本武尊と義兄弟の建稲種命である。従って
大和系の女神である。足次の郷に勧請された彼女は、米作り指導者であり、五穀豊穣の守護神だった。大明神として西暦907年延喜式神明帳が完成する以前より現在地に祀られていた。(日本神祗由来事典)
出雲大社方面よりの勧請説
阿須波大明神は大年之神の御子である。
阿須波のアは、接頭語で諏訪の神と同じではない。スハ族の祖神と天知迦流美豆比賣の間に生まれた子で、
地を守る神、足場の神である。
従って、出雲系で出雲大社の例にならい、最初に勧請した地は芳井町川相で「大社」(オオコソ)という地名が付けられている。やがて天神山に祀られ、応永年間に足次大明神として井原町倉掛の地に合祀され、現在に至っている。(後月郡誌)
歴  史
天皇 年号 摘要
56代清和天皇 貞観元年 859年 現芳井町大字川相大社に出雲の地より阿須波~を勧請。第一鎮座地を足次山神社と呼んでいた。第66代一條天皇の時代、寛弘の終わり(1012年)頃まで約150年この地に鎮座した。(出雲大社方面よりの勧請説)
60代醍醐天皇 延喜 7年 907年 延喜式神明帳が完成。社殿の大小、境内の広狭、氏子の多寡によらず、尊信の厚い神社を採択記帳したもの。延喜式神明帳の「足次郡の足次山に神社あり、延喜の御字以前に鎮座し給う式内の御神」という記事は、足次大明神、現倉掛の足次山神社を指している。
60代醍醐天皇 延長 3年 925年 「延長の風土記・備中風土記」によれば、備中国は11郡73郷に細別されており、足次郷はそのなかの一つ。
68代後一條天皇 長和 5年11月
      1016年
大嘗会和歌集
  「ことしより 数をかそえて君がため
       八千代をつまむ くらかきの山」
     詠み人は内蔵権頭備中国、主基善滋朝臣為政
   主基とは=大嘗会の時、天皇にお供えする新穀を作る稲田の管理
          を司る朝廷直属の長官。
   歌の意味=今年から天皇のために千代、八千代まで米作りに
           励み、美味しい米を山のように倉垣(今の倉掛)の
           里に積み重ねて欲しいものだ。
100代後小松天皇 応永 元年 1394年〜
        1413年
天~山足次山~社から倉垣(倉掛)へ遷座
111代後西天皇 寛文6年 1666年
          11月
足次山~社再建
足次山~社の各起源説が飛び交い、氏子の疑心暗鬼が広まる
116代桃園天皇 寛延 4年 1751年
       3月
~道管領長上ト部朝臣兼雄より足次大明~の縁起書を受け取る。
後月郡氏子中へ五穀能生の守護神として、額字縁起書を受け、改めて後月郡氏子中へ五穀能生の守護~にして、式内の旧社なることを披露し、各村の庄屋・年寄が連判する。その内容は次のとおり。

「備中国後月郡足次郷井原村倉垣之里足次大明神者縁起之御宇以前鎮座し給う式内之御~たるによって此度御本所へ登速に額字縁起等を頂戴す。御神体尊号も口伝により詳に述べがたしといえども第一、五穀能生の守護神各々御信厚の所改めて後月一郡の氏子中に遂披露候者也
        寛延四年末十月  
                            祠官 大塚信吉 印
            井原村外三十ヶ村庄屋年寄等六十八名 連印 」
119代光格天皇 文化12年 1815年 裁許状に足次大明神と奉称す(後月郡誌)
120代仁孝天皇 弘化 2年 1845年 足次山神社 本殿再建(10月)
明治元年正月
       1872年
足次山神社と改稱
122代明治天皇 明治 5年11月
       1877年
郷社に列せらる。
明治 7年 1879年 釣殿、拝殿建築
明治40年1月27日
       1907年
勅令第96号により~饌幣帛料を供進すべき神社に指定せれる。
明治41年 1908年 前面地所、2反歩余りを買収して神苑となし、桜を植樹。忠魂碑を建立して毎年、郡中一円の招魂祭を執行す。
明治41年 1908年 1月より~饌幣帛料供進指定神社となったことで、岡山県訓令第11号の祭々式により毎年4月4日に祭儀を行う。例祭は毎年10月26日午前、町内村社において各々神社祭式による例祭式を執行し、各神社神幸式を同時一列に行う。(後月郡誌)
124代昭和天皇 昭和21年 1946年 神祗院より県社昇格内規に撤し由緒のうえ、県社に該当するものと認められる
昭和32年 1957年 社殿修理
昭和45年 1970年 井原市戦没者芳名碑建立
125代平成天皇 平成12年 2000年 ~社南沿い旧玉垣撤去、市道拡幅、新玉垣を新設
平成12年 2000年 平成の大修復(本殿、拝殿)

祭儀(春) 毎年4月郡中大祭を執行す、其の祭式は総て~社祭式により後月郡中司、社掌一同にて之を行ひ後月郡長及各町村長信徒惣代氏子惣代列席す。
明治41年1月より~饌幣帛料供進指定~社となりしを以て、明治40年3月、岡山縣訓令第11号の例祭々式により、毎年4月4日その祭儀を行う。
祭儀(秋) 例祭毎年10月26日午前町内郷村社に於て各々~社祭式に據(よ)り例祭式を執行し、而て各~社~幸式を同時一列に行ふ。其(その)次第は井森~社へ他の~社より大奉弊を捧し~職及当番組参集し~幸祝詞を奏し、而て茨八幡~社御發遣弊、太鼓、幟、~興、大榊、大奉幣(当番捧持)、当番組、神職、次に足次山~社御発遣弊、太鼓、幟大榊、大奉幣(当番捧持)、当番組、神職、次に皇太子~社御発遣弊、太鼓、幟、大榊大奉幣(当番捧持)、当番組、~職、次に井森~社御発遣弊、太鼓、幟、~馬~輿大榊、大奉幣(当番捧持)、当番組、~職、斯くの如く整列して正面の鳥居を出て井の口側唐樋を経て小田川堤を通り、新町に出て本町・中町・下町・倉掛を経て足次山~社境内に参着。御旅所~拝式終って各々~社へ還幸大奉幣を鎮め奉り祝詞を奏し頂盃の式を行ひ例祭終る。但し~幸途次茨八幡~社大奉幣、并、井の森~社大奉幣柳本氏宅に御駐蹕、足次山~社大奉幣、并、皇太子神社羽子屋屋敷の宅に御駐蹕各々御神酒を奠し奉る旧例ありき。
≪難解語の意味≫
大奉幣
(だいほうへい)
大嘗祭(だいじようさい)に伊勢大神宮以下、五畿・七道の神社に奉った幣帛(へいはく)
神輿(みこし) 神道の祭の際に、普段は神社にいる神霊が氏子町内、御旅所などへ渡御するに当たって一時的に鎮まるとされる輿である。
幣(ぬさ) 神に祈るときの捧(ささ)げ物。古くは麻・木綿(ゆう)などをそのまま用いたが、のちには織った布や紙などを用い、多く串(くし)につけた。また、旅には、紙または絹布を細かに切ったものを「幣袋(ぬさぶくろ)」に入れて携え、道中の「道祖神(だうそじん)」に奉った。
駐蹕(ちゅうひつ) 天子が行幸の途中、一時乗り物をとめること。また、一時その土地に滞在すること。
御旅所(おたびしょ) 神社の祭礼で、祭神が巡幸するとき、仮に神輿(みこし)を鎮座しておく場所。
発遣(はっけん) 差し向けて行かせること。使者などを派遣すること。
各々(おのおの) 多くのもののそれぞれ。めいめい。
而て(しかして) しかして。しこうして。そして。
ならびに。ともに。
斯くの如く
(かくのごとき)
このように。こんなふうに。



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