雪舟等楊禅師

 室町時代に活躍した画聖・雪舟。水墨画の大成者として、日本のみならず、世界に通用する芸術家である。
 そんな有名な芸術家と田舎の山寺・重玄寺の繋がりは・・・・?

 これほどの偉人でありながら、雪舟の生涯は謎に包まれている。
 最大の原因は、雪舟は自分の事を多く語る事が無かったことと、1箇所に留まって制作に専念することがなく、いわゆる「漂泊の画僧」であったことが挙げられる。

 そういう意味で、ここ重玄寺が雪舟終焉の寺であると言い切ることは出来ないのだが、近年、山口市の雲谷庵・益田市の大喜庵とならんで、終焉説の一つに加えていただくようになった。
 古くから、「東福寺誌」「吉備物語」等の文献に重玄寺終焉説が多数出ているものの、雪舟との繋がりに疑問を示す専門家が多く、説得力が無かった。

 しかし近年、重玄寺開山・千畝禅師と雪舟を結ぶポイントとなる「也足外集(やそくげしゅう)」なるものが発見された。
 雪舟が生まれたであろう総社市赤浜の家に、千畝禅師が招かれ、法要を行った、その折に作った香語(禅宗における漢詩)が見つかったのである。

 これは即ち、千畝禅師と雪舟の一族との親交があったことを裏付けている。

 そして何よりも、人間は年を重ねていくと、故郷を懐かしむものである。雪舟とても、幼い頃に走り回った山河、食べ物を懐かしんだとしても不思議は無い。
 故郷に向かって最後の旅に出た雪舟は、同じ備中のゆかりのある重玄寺までたどりついたものの、力尽きた・・・・そんな浪漫を感じるのだが。いかがなものだろうか?

東福寺誌東福寺誌
東福寺誌終焉日東福寺誌の終焉該当ページ
伝雪舟の墓伝雪舟の墓

  雪舟等楊の年表

 年代 年 齢 内  容
1420 1 備中赤浜に生まれる
1430頃 11 相国寺に入り春林周藤に仕える
1464頃 45 周防山口」の雲谷庵に住む(こう之恵鳳、雲谷庵を訪ねる)
1467 48 遣明船で、明に渡る。天童山で首座の位をうける。礼部院の壁画を描く
1469 50 明の寧波より九州博多に帰国
1471 52 「倣夏珪山水図」を描き、弟子小蔵主にあたえる
1474 55 「山水小巻」を描き、弟子の等悦にあたえる。
1476 57 豊後大分に住み、天開図画楼をいとなむ。「鎮田滝図」を描く
1479 60 石見益田で「益田兼尭像」を描く
1486 67 「山水長巻」を描く
1490 71 「自画像」を描き、弟子等観に与える
1495 76 「破墨山水図」を描き、弟子宗淵に与える
1506 87 雪舟、没


子どもにも分りやすい「雪舟ものがたり」を作成しました。

これは、雪舟を語る会が平成9年に作成した「雪舟ものがたり」をもとに、ホームページ用に作ったものです。
拙い文と絵ですが、ご覧ください。