中国の雪舟 明(中国)でもいっぱい勉強をした。そして日本から来ている絵の上手いお坊さんとして、有名になった。役人の大学の様なところである「礼部院」の壁に絵を描いて欲しい、と言われ、龍の絵を描いた。
日本から来た雪舟と言う人は、中国人にも負けない絵を描く。中国人も負けずに勉強するように!という意味を込めて。
私も、絵の画法、自然の雄大さを習得して帰国した。
芳井の雪舟 日本に帰った私は、いろいろな所に旅をした。当時応仁の乱で、日本中が荒れていたが、安全な所に旅をした。
大分、山口、東海、山陰、友を訪ねたり、私を必要としてくれる大名のもとで、絵を描いた。
重玄寺のある芳井町にも来た。紅葉の名勝「天神峡」、そこに祀られている天神社に来た時、天神像の掛け軸が風雨に曝され、傷んでいた。そこで、重玄寺に持ち帰って保管した。その掛け軸は今でも重玄寺の文化財として、大切に保管されている。
晩年の雪舟 日本各地を旅した私も、晩年には絵を描く事も、旅することも大変になってきた。年をとると生まれたところ、幼いときを過ごした場所を懐かしく思うようになった。
故郷めざして帰りながら、途中よく来ていた重玄寺までたどり着いたとき、私は力尽きた。
春ほやほやの旧暦の2月18日(今の3月中ごろ)、私は87歳で死んだ事になっている。
その時、名残雪が降っていたか、彼岸桜が咲いていたか、今では誰もわからないのだ。
今から500年も昔のお話だった。
                             おしまい。