【塩飽】と書いて、何と読むか知っていますか?
 【しわく】と読むんです。「塩」が「し」で「飽」が「わく」と読みます。読めないと思いますが読むんですよ。人名、地名の読み方は大変難しいです。
 もちろん、【塩飽】と言う地名もありますよ。
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本州の岡山県と、四国の香川県に挟まれた備讃瀬戸に点在する約30の島々を総称して【塩飽諸島】と呼ばれています。
この付近は、瀬戸内海の東側からと西側からの潮流が出会い、まるで潮が沸くような複雑な流れになる事があります。また、弥生時代から奈良時代にかけて、この島々の人たちは、海水を土器で煮て塩を作っていた為、塩飽諸島の名前は『潮が沸く』または、『塩焼く』から転じたと言われています。

四国の香川県丸亀市には、塩飽町があります。

3.塩飽水軍について

潮の干満によって、瀬戸内海の東側からと西側からの潮流が出会い、まるで潮が沸くような、速く複雑な潮流は、たくましい海の男達を育てた。水軍として歴史に現れるのは南北朝時代ですが、織田信長の時代には朱印状を与えられ、巧みな航海術を駆使して活発な交易を行い、島内に莫大な富を蓄積して行った。
 豊臣秀吉の四国・九州遠征や小田原攻めの時にも、軍艦の操縦や輸送に優れた働きをみせた。島民650人は豊臣氏の船に任じられて、1250石の領地を与えられた。江戸時代にも、この特権は引き継がれた。

「大名にあらず、小名にあらず、人名」と言われる塩飽諸島の人名制度は、日本史のなかで特異な身分制度でしょう。江戸時代に650人の船方が集団で島内の領主とみなされ、自治権と周辺海域の制海権を握っていた。選挙で選ばれた4人の「年寄」が、最高指導機関として全島を管理し、訴えや裁判をした。本島には、塩飽勤番所の建物が残り、朱印状などの繁栄の歴史を物語る遺品が展示されています。
 1860年(安政7年)には、幕府の咸臨丸でのアメリカ渡航には、乗組員50人のうち35人までが、塩飽の島民で占められていたと言われています。しかし、明治以降は、船舶が巨大化してくると時代の流れに取り残され、静かな漁村になった。

塩飽って?