クトゥルー 3
『―――この手記を読む者は心せよ。これを読む事により、彼の者の呪いが降りかかろうとも 私は何の責任も負わない。読むかは賢明なる諸君の判断に委ねる事としよう』
「『ネクロノミコン』以上の書物があると知ったらあなたはどうされますか?」
霧深き幻想の都ロンドンのとある一軒の古本屋で書物を探していた私にそこの主が最初にかけた 第一声がそれだった。
全ての始まりは霧深く、ちまたでは切り裂きジャックと名乗る殺人者がロンドンの夜を狂気と恐怖で 染めあげていた1888年10月10日の午前0時の夜。 この日、私は大学で考古学の論文をまとめ上げる作業に没頭していた為、日が沈むのにも気が つかなかった。全ての作業が終わったのは深夜もいいところであり、私は慌てて帰路の人となった。 だが、すでにその夜は霧に深く覆われており、足元すら夜という名の闇と相まって良く見えない。 巷を騒がせている殺人者切り裂きジャックが徘徊するにはこれ程適した日は無いであろうと、私は 半ば恐怖で肩を竦めた。 自然と早足となるが、何しろ足元すら良く見えない霧と闇の中。何度も転びそうになった。 とにかく灯が欲しかった。文明の火である灯が。 そう思いながら歩いていた時、ぼんやりと紅い光が見えた。 霧と夜という名の闇と相まって、それは何やら幻想的かつ太陽の光に対する冒涜に見えたものだ。 とにかく霧の中に紅い光が浮かび上がり、それはまるで私を手招きするかのようにその存在を訴えて いたのだ。 私は闇とこの深き霧に対する恐れもあり、この幻想的な光の方向へと足を歩めた。 その紅い灯はレンガの壁いっぱいに苔が生えたみすぼらしい建物の入り口から外へ向かって放たれて いた。何処にでもあるようなみすぼらしいロンドンの建物だ。違うのはその建物が塔のように高かった 事だ。上を見上げても天辺が霧と闇に隠れて見えない。 壁には薄汚れた半ば風化しつづある文字で『古本屋』と書かれた看板が貼り付けられているだけだ。 どうやらこの深夜にもまだ営業しているようだ。 切り裂きジャックに対する恐怖もあったし、今日ほど闇と霧がこの上も無く恐ろしかった私は多少の 躊躇いはあれど、その古本屋の中に足を踏み入れたのだった。 入ってみると最初にかび臭い匂いが鼻を刺激した。 本そのものはちゃんと収監されているのか、綺麗に本棚の中に並べられていた。それだけは他の 古本屋と左程変わらない。 だが普通と違い、ここは照明を赤色にしているせいか、全てが赤色に照らされた異様な光景だった。 一回だけ背後を振り向き、外に出ようかとも思った。だが入り口の外側はまるで奈落がぽっかりと 口を開いているような暗さだったので、そうした考えは一瞬の内に萎えた。 仕方ないと思い、職業柄私は神話や歴史を扱った書類をまとめているところに向かい、様々な書物に 目を通したが、どれとて目ぼしいようなものは何一つとして見当たらなかった。どれもこれもそこらの 本屋で見かけるようなタイトルのみだ。 軽い失意の感情を覚えながらも、取り合えず時間潰しにと、それらの書物でめぼしいものを立ち読み しようとしたその時であった。 冒頭に書いた言葉をいきなり投げかけられたのは。 慌てて私が振り向くと、そこにはこの古本屋の主であろう男が私をニタニタとした卑屈そうな笑みを 浮かべながら見ていたのだった。 不謹慎かもしれないが、最初それを見た時、私は思わず悲鳴を上げそうになった。 何故ならば―――紅い照明に照らされて顔全体が血のように真っ赤に染まって見えたのだから。 恐らく死体のように病的なまでに真っ白な肌をしているのだろう。そう思う事にしたかった。 何よりその男を特徴つけていたのは、あまりにも小人のような背の低さにあった。顔は眉が無く、 髪すら生えてない頭。老人の頭に八歳くらいの子供の身体、と言えばお分かり頂けるだろうか。 おまけに酷いせむしで、ボロボロのローブみたいなのを身に纏っている。 何より印象的だったのはその瞳だった。あまりにも黒々しく、そして見つめている内に奈落の底に 吸い込まれるような闇の色だった。 だが何よりも私を驚かせたのは冒頭のあの言葉だった。 私は何とか平静を装いつづ、内心の動揺を相手に諭されまいとしながらも軽く言う。
「何を夢物語みたいな事を」
事実そうだ。 私の知る限り、かの書物以上に禁断の知識を知る書物は無い。『ナコト写本』『エイボンの書』も あるが、それらのいずれも『ネクロノミコン』以上の知識は無い。 その事は大英博物館でそれらを実際に読み、研究した私だから良く分かる。 だがその時であった。男がさらに口元をニタァッと醜く歪めたのは。吐き気のする笑顔だった。
「だがそれとて完璧ではない。そうでしょう?」 「!?」
まるでこちらの考えている事を読み取ったかのような発言に私は愕然となった。 だが彼の言う通りであった。 それらの魔導書を比較しても共通した部分があまり見受けられない上に、『ネクロノミコン』に 至っては巻末に進むにつれてまさに狂人の喚き事としか思えないくらいに文法が滅茶苦茶になって いたのだから。恐らくこれを書いたアブドゥル・アルハザードなる人物はこれを書いている内に発狂 していったのだろう。 ゆえに他の書物に比べても禁断の知識について書かれた書物であったが、完全では無かったし、また 狂人の戯言ゆえの誤りもあるのは間違いは無かった。 男がその醜い顔を私に向けながら言う。
「そう。だから貴方はその知識以上の知識を求めたがっている。違いますか?」
勝ち誇ったかのようなその笑みに胸糞が悪くなるのを感じながらも私はなるべく平然と言う。
「『ネクロノミコン』以上の書物だって? あるなら出してみたまえ」
と。 明らかにこの時の私は常軌を逸していたかもしれない。これがいつもの私であれば、外の闇の中に 早々とその身を投げ出し、その場から去ったであろうに。思えば私はこの古本屋に入ったその瞬間から おかしくなっていたのかもしれない。 男が静かに頷く。 そして両手に大事そうに抱えていた一冊の書物をうやうやしく、まるで王に捧げるかのごとく、私に 渡したのだった。 私が尋ねる。
「これは?」
と。
「貴方が求めた書物でございますよ」
男が笑った。 言われて私は受け渡されたその書物に目を向ける。 本は大判の台帳程の大きさであり、きわめて分厚かった。ざっと見た限りでは千ページ程はある だろうか。 表装は見たことも無いあせた黒い布らしきもので、額縁は見たことも無いような銀色の金属で 覆われている。 私がページを開こうとしたその時だった。
「ニャアアアアアアン…」
ハッと背後を振り向くと本棚の上から黒い猫が私を舐め回すかのような目でジッと見つめていた。 私はその黒猫の雰囲気に何やら得体のしれない心騒がされる不安を覚えた。 取り合えずこの本を幾らで売るのか、と男のほうに向き直った、が。 誰もいなかった。 慌てて周りを見るが男の姿はすでにそこに無かった。 隠れる場所も無いくらいに狭い古本屋の中だというにも関わらずだ。 紅い照明の色が不気味にそこを照らすのみ。 この時私はその本を投げ出す事が出来ただろう。 だが出来なかった。 これは『ネクロノミコン』以上の書物だという。 例え、それが愚かな騙りであり、騙されていようと万が一という事もあり得る。真実を知りたかった。 この世に人類が発生して以来、多くの先人達が求めた世界の真理と知識。 その誘惑には勝てなかった。 そして私は恐る恐る、その本のページを開いたのだった。
ここから先に起こる事を読んだ者は私を狂人と思うかもしれない。または何を戯言を抜かしている のだと激怒なされるかもしれない。 しかし私は狂人でもないし、詐欺師でもない。ここから先に記す事は私の名にかけて一切が真実で ある事を了承して頂きたい。了承して頂けないならここで先を読むのは控えて貰いたい。
本を開いた時、最初に目に入ったのはページ全体をぎっしりと埋め尽くした赤茶色の不思議な金属で 出来た象形文字のようなシンボルであった。恐らくこれが文字なのかもしれないが、一体何処の文明の どのような人々がこれらの文字を作ったのだろうか。おおよそ私には翻訳出来ないような代物だった。 軽い失意を感じたが、変事は次の瞬間おこった。 何とページいっぱいに埋まっているそれらのシンボルがクネクネとまるで蛇のように動き出し、 それを見ている内に私の脳の中でそれらのページが映像化されていったのだ。 信じられないであろうが、私の精神は本の中の世界へ跳んでいたのだ。 そのページの中に記された世界の中に、そのページの物語の中に。 そして絶えず頭の中で何が起こったのか、そうした知識が次々に流れ込んでは私の脳に刻まれてゆく。 そう、神が全てを知るように私の脳はその一瞬だけ神の力を得たと言っても過言ではない。 その膨大な知識の海の世界に身を委ねた私の精神は、私の脳の中で映像として再構成され、翻訳 された世界を見ていた。 まず最初に光のシャワーが見えた。虹色に輝く闇の世界の中を私は急速に跳んでいた。全てが虹色で 、その世界の中には絶えず虹色の泡が無数に浮いており、馬鹿に綺麗な光が浮かんだかと思えば急激に 闇の色に染まり、その色の変化には法則性など微塵も欠片も無い。 そして闇に染まったとき、そこには螺旋のように紫、赤、緑、青、黄、白、黄緑と様々な色に変化 する光の流れが見えた。 ある時は急速に私の視界から消え、ある時はゆっくりと進み。 この世界では我々の世界における物理学など一切が当て嵌まらない。光の流れが絶えず変化し、 ありとあらゆるものが狂っていた。 いや、これが四次元なのかもしれない。我らが三次元に在り、線の一次元、面の二次元を認識するが それらの世界に在る存在に三次元が認識出来ないように、三次元の世界に在る者にはおおよそ理解し がたいだろう。 あまりの事に私の意識は途切れた。 そこからは一切が闇だった。だが今の私にはその闇すらありがたいとさえ思えた。
次に目覚めた時、私は人では無かった。 否。 人らしき存在であった。 それを苦痛にも思わなかったし、悲しいとも思わなかった。 全てを当たり前みたいに受け止めていた。というより、私は私であって私では無かった。 何と言えば良いのだろう。分かりやすく言えば小説の中の人物に過剰なまでに感情移入して本の中の 世界に入り浸っているが、やはり何処かでこれは所詮物語だ、と冷めているあの感覚? その世界は銀河の何処かだろうか。 あるいは過去だろうか。未来だろうか。 少なくとも地球では有り得なかった。 何故ならば、その世界には太陽が三つ輝いていたのだから。 そして私の眼下には灰色の草原が地平線の彼方まで広がっており、その灰色の草原の中心に大理石の ような、見たことも無い表面がツルツルと磨き上げられた円柱の大都市がぽつんとあった。 私の姿形も人間のようだが、人間ではない。極めて人間には近い姿をしているが、人間では無いのは 確かだった。 私が歩くたびに足音がべたんべたん、とまるで水でぬかるんだ泥道の上を歩いた時のような不快な 音がしたからだ。 だが地面は硬かった。それは即ち、その音を立てている要因は他ならぬ私の足そのものにあると お分かり頂けるだろう。 私は巨大な円柱が立ち並ぶ都市の中へ入り、そこで頭上を見上げる。 円柱は遠くから見たらまっすぐに建っているように見えたのだが、足元から見上げると微妙に歪んで 見えた。その曲がり具合と来たら、曲がっているのか、真っ直ぐなのかハッキリしない為に妙に不快を 感じさせるものだった。 さらにここの住人達は私と同じように見たことも無いような銀色の布一枚で身体を覆っている。 さながらギリシャ時代の人々のように。違うのは彼らが私と同じように姿形は人間のそれなのだが、 耳とか指先とかが鋭く尖っており、目が大きく窪み、瞳孔は目いっぱいに広がって真っ黒なのだ。 恐らく私の姿も似たようなものなのだろう。 だがここには平和があり、そして私の知る文明よりも遥かに高等な文明だというのが窺い知れた。 何故ならば商店街とおぼしき通りを通った時、そこの主が人間と同じくらいの大きさの何か銀色に 輝く丸い球体のようなものを回すと、その球体の中心点に取り付けられた太いチューブの先から肉が 次々に吐き出されたからだ。 中に何か材料があるのか、と主に尋ねたが主曰く、大気を漂う酸素や窒素、水素、二酸化炭素などを 吸収し、合成させて作られた肉であるとの事。 それだと大気に漂う物質が無くなってしまうではないか、と懸念したが、主曰く大気を漂うものは 我々の食物を食べている時に発する熱から作られ、再び我らの食物となり、それが繰り返されるとの 事。 分かりやすくいえば、光合成みたいなのが行われていると言えば良い。 私は驚き、感心しつづも主に礼を言い、その場を離れる。 人ごみの中を歩いていた時に私はいきなり背後から誰かに肩を掴まれたのだ。 私が驚いて背後を振り向くと、深い掘り立ちの美男子に入るであろう男がにこやかに私に笑みを 向け、気安く言う。
「よう、カトゥルン。どうしたんだい、君がこんなところを歩いているなんて珍しいじゃないかい」
どうやらこの世界では私の名はカトゥルンという名の男であるようだ。 だが私であって私では無い者―――カトゥルンは気難しそうに笑みを薄っすらと浮かべ、溜息交じり にこう言う。
「トラヴィール。僕だってたまには外を歩くよ。だが相変わらずここは何も生み出してはくれないね。 僕が求めている真理はこんなところには無いのだ。何という時間の浪費。だが生きる為には仕方無い 事ではあるね」
トラヴィールと呼ばれた先程の若者は笑みを崩さないまま、私の肩に自分の腕を回して言う。
「いつまでも部屋に閉じこもっていても不健康なだけさ。たまには歩くのもいい事だ。それに人はこの 無駄な時間にこそ幸せを感じるものさ。違うかな?」 「それは凡人の幸せさ。生憎と僕の幸せはそこには無いのさ。僕は真理を知りたい」 「あまり根詰めるな。…時として知らないほうが幸せだという言葉もある。そうだろう?」
トラヴィールの心配する顔を私は直視出来ず、目を背ける。 私はどうしても真理を知りたかったのだ。何ゆえこの宇宙が発生したのか。神と呼ばれる存在が何 なのか。森羅万象を。 その為なら何を捨てても惜しくは無かった。 そして私は決意した。 ―――今日こそ例の秘術を試そうと。
トラヴィールとそれからもしばし話し込んだ後、私はいそいそと我が家に帰った。 銀色の円状のドアを開けると、そこには部屋いっぱいに何やら奇妙な記号で描かれた魔方陣が 広がっているではないか。 円の中にありとあらゆる存在を象徴する記号が描かれている。殆どが見慣れないものだったが、一つ だけ見覚えがあった。 その魔方陣の中央に描かれていた記号は『ネクロノミコン』に記されていたあの奇妙に先端が 曲がっている五芒星形であった。 確か名は『旧神の印』。 そして何故かそれの上には粗末な小さなテーブルが置かれている。 部屋を良く見ると、あちこちに不思議な材質で出来たであろう本が大量に転がっている。 恐らくいずれを取っても禁断の知識について記された書物であろう。 そして彼―――カトゥルンは市街で買った一つのものを取り出し、それを祭壇の中心に在るテーブル の上に置いた。 それは黄金色に輝く、何処と無く古びた神々しい輝きを放っている。 私は彼の記憶からそれが何なのかを突き止めた。これは麻薬の一種である。精神をリラックスさせ、 肉体から魂が離れるかのような開放感を与える為の麻薬―――蜂蜜酒。 その蜂蜜酒に続いて彼はまたあるものを取り出した。 奇怪な形をした笛だった。 そして彼―――カトゥルンはしばし躊躇った後、思い切って蜂蜜酒を飲み込み、そして笛を吹いた。 ほうほう、と奇妙な音がした。 それと同時に魔方陣に記された記号が微妙にぐにゃりと歪み始める。彼の視覚が酔ったからでは 無い。記号そのものが文字通りあたかも生命を持つかのように動き始めたのだ。 そして彼は呪文を唱えた。おおよそ地球の言語ではない奇妙な発音で正確に。それを記すのは止めて おこう。これを読んだ諸君がその言葉を試さないように。 すると魔方陣の記号がさらに歪み始め、部屋までが奇妙にぐにゃりと歪み始めたではないか。 そして大気に何か奇妙な魚のようなものが漂い始めたのだ。元から存在し、私達がそれを認識して いないだけかもしれない。いわば一種の霊的存在とでも言えばよいか。興味深い事にそれらは私達が 普段深海魚として知る存在に非常に形が似通っていた。 そして魔方陣はというと、すでに魔方陣の外の景色はこれ以上は無いくらいに歪み、そして魔方陣 以外の景色はさながら混沌のように解けあい、一つとなり、そこには深遠なる闇が広がった。 そして彼カトゥルンは何とした事であろう。自らの身をその混沌の中へ魔方陣から投げ入れたのだ。 闇。闇。闇。闇。 何処までも落下してゆく。 そこでは時間は一瞬であり、また永遠でもあった。 その流れに私は身を委ねていた。そして私の意識とカトゥルンの意識は溶け合い、一つとなった。 カトゥルンは私という異物の意識に最初は驚き、戸惑ったが、やがて私の意識から自分と同じように 真理を求めている同胞と知ると、彼は安心し、そして私と自らを同化させるのを良しとした。 そして一つに溶け合った意識はこの奇妙な闇の世界を何処までも漂い、そして旅した。 そして黒い闇の世界に終わりか来た。替わりに現れたのは白い闇だった。 全てが真っ白に輝くその世界の中―――。その世界には様々なドアがあった。何と言えば良いのか。 無数のドアが宙に浮き、そしてその白い闇の奥からは狂おしい太鼓の音が聞こえた。 私の意識はその太鼓の音のする方向へ向かった。 と、途端に世界は反転し、虹色の闇がそこに広がった。 カトゥルンは私の記憶から、それが最初に私が見た世界だと知った。私もまたカトゥルンの記憶から この世界が真理への通過点である事を知った。 前へ。前へ。前へ。前へ。前へ。 私の意識は何処までも突き進んでいった。 そして反転。 私の意識は再び白い闇の世界へ。黒い闇の世界へ。虹の闇の世界へ。それを交互に何処までも 繰り返し―――そして。 私の意識は終着点に辿り着いたのだ。 即ち―――真理の終着点へ。 ―――そこは何も無い白い闇の世界。無と言ってもいい。 無の世界にただ一つ。巨大なモノリスが浮かんでいた。 真っ黒で、ただそこに在る。 そのモノリスには何も刻まれていない。だが私は知った。 これに全ての真理が詰まっているという事を。 そして私はそのモノリスにゆっくりと―――手を伸ばした。 指の先端がそのモノリスに触れた瞬間―――膨大な知識が急激に支離滅茶苦茶なヴィジョンとして 私の意識の中に流れ込んだ。 同時に私は悟った。 そのモノリス―――が真理への鍵であると同時に邪悪な生物の肉体の一部であった事を!! そう認識した瞬間、白い闇が弾け、虹色の闇が。 そして私の精神はモノリスと同化していた。否、吸収されそうになっていたのだ。 慌てて離れようともがいたが、それは決して私を放さなかった。 そして私の意識はもがけばもがく程にモノリスの中に吸収されてゆき―――私の胴体が、私の頭が 吸収されてゆき、最後には全てがそのモノリスの中に吸収された。 途端に黒い闇が広がり、そして黒い、あまりにも黒い漆黒の闇の中で虹色の闇に輝く球体の塊が 不気味に輝いていた。それは私の精神を捉えて離さなかった。 そしてそれの邪悪な意思が私の意思の中に流れ込んだのだ。 それは興味深そうに私を観察していたのだ。 悠久の次元の狭間に封印されて久しく、その間にこのようなちっぽけな生命体が誕生したのか、と いう悪意ある意識であった。 それを直視した私は狂わんばかりに大きな叫び声を上げた。だが狂えなかった。 否。それが私を狂わせまいとしたのだ。あくまでもそれは私の意識から今、外側の世界がどうなって いるのか、その知識を得ようとしていたのだ。 そこに至って私は始めて自分がいかに愚かな事をしてしまったかに気付いてしまった。 それは今まで私のような生物が存在する事を知らなかったのだ。だが私を通してそういった生物が 存在するのを知ってしまったのだ。 それの無数の虹色に輝く球体―――泡が歓喜に震えた。それが大きく不自然に膨れ上がり、萎むの 繰り返しによって、大体分かる。 それは私の得た知識でこう呼ばれる存在であった。
―――ヨグ=ソトートと呼ばれる忌まわしき存在と!!
同時に私の頭の中に映像が流れ込んできた。 それが見せているのが、それとも得た知識が再現されているのかは分からない。 とにかく映像が私の脳の中であたかも今実際に見ているかのように再現されたのだ。
…宇宙が誕生していくところが見えた。 最初は白い闇が広がり、その中に黒い、卵のような球体が不自然に発生し、それは卵の形にどんどん 大きく膨れ上がり―――そして大爆発がおこった。 大爆発の中で虹色に輝く球体がまるで花が花粉をばらまくかのように―――何億、何兆とも知れぬ 数の球体が白い闇の中を何処までも飛び続け―――やがてそれらが思い思いの場所に立ち止まり、 それが無限増殖を繰り返し、やがて虹色は黒色に変色してゆき―――白い闇の世界のあちこちに黒い 卵型の球体が誕生した。 そしてその黒い球体のいずれにも誕生の時を待って胎児が眠っていた。邪悪な胎児が。 そしてその黒い卵型の球体から胎児が急激なスピードで成長し、卵を破った瞬間、それらは横に 大きく広がってゆく。 大爆発(ビッグバン)の繰り返しだった。 そしてその黒い球体―――卵の欠片こそが…我々が宇宙として認識しているものだったのだ。 銀河、アンドロメタ星雲…全ては卵の破裂した欠片だったのだ! そしてそれらの生まれ落ちた胎児は―――白い闇の中を自由を得たように飛び回っていた。 何とグロテスクな生物達である事か!! そして―――白い闇がうねり、巨大な一つの生物の形を型取り始めたのだ。 その白い闇の中で生まれ落ちた子ら―――は皆一様にその白い闇の塊にひれ伏すかのように頭――― ? をたれ下げ始めたのだ。 白い闇の塊は次第にグロテスクな実体を現し始め、我が体内より生まれ落ちし、それら黒い闇の子達 を祝福しはじめたのだ。 黒き闇の子ら―――はあるものは歓喜の雄たけびを、あるものは狂気の唸り声を、あるものは絶望の 囁き声を上げた。 白い闇が。 完全に固まり、その姿をあわらにした。 それは―――白銀色に輝く、太陽のように神々しく、そして全てを焼き尽くす光を放っていた。 それが黒い闇の子ら一人一人の名を呼んだ。 即ち。 クトゥルーと。 ハスターと。 クトゥグァと。 ツァトゥグァと。 シュプ=ニグラドと。 ガタノトーアと。 ラーン=テゴスと。 チャウグナル・ファウグンと。 そして様々な小神の名を。 やがて…白い闇の中を無数の巨大な虹色の泡があたかも無から生じたかのように現れ、それが急激に 無限増殖を繰り返し、それらの泡がくっ付き合って一つの巨大な群体の生物の形を型取り始めるでは ないか。白い闇の中に在って、呪われた子らを産み落としたそれ。 今私の精神をがんじがらめに縛り、離そうとしない、呪われた母にして、父たるその存在!! 白銀の存在が歓喜に打ち震えた声でそれを祝福した。 ヨグ=ソトートを。 そしてその瞬間、私は知った。 我等が世界と呼んでいるこの次元、はては宇宙という世界はヨグ=ソトートの無数に在る泡の一つに でしか過ぎず、そして奴ら―――旧支配者は悉くがそのヨグ=ソトートのそうした泡…卵から産まれた 存在であり、産まれた時に生じた破裂こそが我等が大爆発(ビッグバン)と呼んでいたものに過ぎない 事を。 何故ヨグ=ソトートが地の支配者と呼ばれるのか。 彼の者は宇宙を作り、そして自身こそが宇宙だったからに他ならぬ。 信じて頂きたい。我等が銀河と呼んでいるこの世界はヨグ=ソトートの無数に在る泡の一つの残骸の なれの果てであるという事を。 勿論これを世に公開したら間違いなく狂気が世界を支配するだろう。特に神を善き存在と信じていた 者程、精神に破綻をきだすだろう。だがあえて私はこれを記す。 そしてその彼の者をすら飲み込む白い闇の化身―――これこそが世界中の神話である時はルシファー、 アザゼル、孔雀大天使、アンラ=マンユ、ロキ、テスカトリポカなどと様々な忌み名を持って憎まれ、 恐れられている大魔王アザトースその存在である。 そして私は見た。 旧支配者同士で最終的に殺しあったのを。 それが果たして原始的な思考からなせる業なのか、あるいは私のような存在の理解を遥かに超える 理性から来た業なのか分からない。 ともかく奴等は殺し合った。 その殺し合いと来たらとても正視出来るような殺し合いではなかった。このように見るもおぞましく、 汚らわしい殺戮劇が他にあろうか。 元々見た者を発狂させるような外見をした者同士が食らい合い、貪り合っているのだ。 その辺りは今思い出すだけでも発狂しそうであるゆえに短く留めるとしよう。 幾多もの次元がその戦いによって滅び、誕生した。 あまりにも凄まじいその破壊力ときたら、まさに神そのものである。 この戦いが果たしてどのくらい過ぎたかは分からぬ。一瞬であり、永遠だったのかもしれない。 少なくとも人間の物差しで計れるような時間の流れでは無かったのは確かだ。 やがて異変が起こった。 この争いがやがて大別して二つのグループに分かれたのだ。 主だった旧支配者のグループと名も知らぬ旧支配者のグループのそれぞれに分かれて、ぶつかり合い 衝突したのだ。 勿論最初は旧支配者の主たる存在のグループが優勢だったのだが、やがて名も知らぬ旧支配者達は 互いの意識を共有しあい、様々なものを発明しはじめたのだ。 弱者ゆえの必死さゆえが、やがて彼等は明確な知識を持つにいたり、急激に様々な兵器を発明しては 対抗してゆき、それに伴い彼等の外見も醜く、とても正視に耐えられない姿から我等に馴染みのある姿 に変化してゆくのが見えた。 やがて彼等は次元を思うがままに開き、亜空間をそこに発生させて、その亜空間の中に封印させる 方法を編み出したのだ。 そこから戦いは主たる旧支配者達にとって劣勢の方向へとひたすら突き進んでいった。 彼等の発明したその兵器は次々に旧支配者達を亜空間の狭間へと封印しはじめ、そして最後には全て の母たるあのヨグ=ソトートすらも亜空間の中へと封印され、最後まで残った白い闇の集合体――― アザトースすらもその意識と肉体を裂かれて別々の亜空間に封印されたのだ。 その戦いは名もしれぬ旧支配者達の勝利だった。 ―――そう、彼等こそが後に旧神と呼ばれる存在だったのだ。 光から闇が生まれたのでは無い。 闇から光が生まれたのだ。
そして…気付いた時、私はカトゥルンとしてヨグ=ソトートと対峙していた。 今までのヴィジョンはかの存在が見せた古の時代の記憶であり、名残なのだろうか。 そして私の周りにはその存在が産み落とした禍々しい存在達が蠢いていた。皆一様に私という存在を 初めて知ったのか、興味深い視線を私に向けていた。吐き気がするおぞましさだった。 例えるなら…ゴキブリが無数に群れを成して、仲間の上を隙間無いくらいに埋め尽くしながら歩いて いる、と言えば、この嫌悪感が少しでもお分かり頂けるだろうか。 やがてそうしたヨグ=ソトートの孕みし忌まわしき子達の中から一匹の存在が私の前に進み出た。 それは他の存在と違い、比較的人の姿に極めて近い姿をしていた。 といっても子供のように短小な姿なのだが。私の腰程の。 そして身体全体をどのような材質で出来たのかは分からないが、フードみたいなものですっぽりと 覆い、顔は闇に隠れて見えない。 そしてそれの腕―――良く見れば烏賊のような触手が黒猫を大事そうに抱きかかえていた。 あの時の猫だ。あの古本屋で見たあの…。 その猫が銀色に輝く目で私を見つめる。 私ははたと気づいた。 この猫の瞳の色がアザトースのあの冷酷な白銀の光であるという事に!! ここで幸いな事に私の意識は途絶えた。だがカトゥルンは―――哀れなカトゥルンは奴等に徹底的に 調べつくされたのだろう。意識を失ってなお、哀れなカトゥルンの声にならぬ絶望の意識が私の意識に 絶えず流れ込んで来たのだから…。
次に気付いた時、私は…カトゥルンはあの部屋の中に戻っていた。 無数の歳月が過ぎたのか、部屋の中は無数の埃と蜘蛛の巣で覆われていた。 私はよろよろとその部屋から出た。 太陽が…こんなにありがたいと思ったのは一体いつ以来だろうか。 私もカトゥルンもそこに真理を知ったという喜びの充実感は無かった。あるのはただ、ただ絶望。 これが愚かにも真理を求めようとし、全ての真理を知ってしまった者に対する罰だった。 宇宙がいかにして誕生したか、神とは何か、いかにすれば物質を生み出せるか、人為的に生命を作り 出す事が出来るか、不老不死になれるか…全ての求む知識は得る事が出来た。 だが、それと同時に私は奴等に―――この宇宙にちっぽけながらも知的生命体がいるという事を 知らせてしまったのだ。 あのように悪意ある存在が私達をこのままほっておいてくれるだろうか? それを考えていると今自分の足元の地面が歪み、消えてしまいそうな錯覚を覚えた。 …そして私は再び彼、トラヴィ―ルと再会した。 そして彼との会話から今が20年後である事を知ったカトゥルンは友であるトラヴィールに今まで 自分が何をしていたのかを話した。 だが宇宙の秘密に関しては彼は友には語れなかった。 ヨグ=ソトートから離された時、万が一その秘密を誰かに知らせたりすれば破滅が待っている、と 警告されたのを覚えていたからだ。 だがカトゥルンに取って20年もの歳月の変化はあまりにも酷かった。 トラヴィールを除いて誰もカトゥルンを覚えておらず、そして世の中からも取り残されていたのだ から。 カトゥルンに取って唯一全てを吐き出せる存在はカトゥルンの頭の中になお留まっている私の意識 だけだった。 だがカトゥルンは精神の安らぎをそこに得る事は出来ず、日々が過ぎてゆくたびにだんだん精神が 荒んでしまった。一つはつねに何かに見張られているかもしれないという恐怖心。そして真実を知って いるのにそれを世に発表出来ないというもどかしさ。 カトゥルンは私に語りかけた。
「…もう我慢出来ない」
と。 私は危険だ、と言ったが、カトゥルンは口元に薄ら寒い笑みを浮かべて言う。
「考えてみろよ。奴等から解放されてもう何年だ? 奴等はこんなちっぽけな僕達の事なんかもう 覚えていないはずさ。奴等は宇宙そのものなのだから」
確かにカトゥルンの言う通りだった。わざわざ足元の蟻の存在を何年も覚えている人間がいるだろう か。カトゥルンが言いたいのはつまりそういう事だ。 何であれ、カトゥルンは己の知った知識の全てを世界に向けて発表しようとしていた。人は何であれ 全てを知るべき権利があるのだと。 だが私はこれを正直カトゥルンの暴走だと思っていた。彼は耐えられなくなったのだ。真理を知った がゆえの重みから解放される為に、その重みを他の者にも背負わせておきたいのだと。 カトゥルンにも私の考えが分かった。私達二人は互いの意思を共有しあっているのだから。 だがカトゥルン何も答えなかった。 そして彼は街道の真ん中でトラヴィールに事の仔細を告げ、真実を全て記した書物を書くと伝えた のだ。 トラヴィールも最初は迷っていたが、最終的にカトゥルンの思うがままにせよ、と賛同した。その時 私は人ごみの中から何かがこちらを見ている視線を感じ、慌ててその視線の方向を振り返る。 その人ごみの奥からこちらをニタリと黒猫が見ているのが見えた。眼は相変わらず…白い闇のそれ だった。 私がカトゥルンに警告しようとした時にはすでにその黒猫の姿は無かった。
その夜、彼は私の警告に耳も貸さず、見た事も無いような材質で出来た紙にこの世の真理、秘密の 全てを書き始めたのだ。 その作業を黙って見ていた私だが、カトゥルンがその筆を進める度に私は青くなった。 それに見覚えがあったからだ。何処で見たのか。私はそれを思い出そうとし、やがてはたと気付いた。
(あの古本屋―――ッ!)
そう、あそこだった。あそこで渡された『ネクロノミコン』以上の秘密を語る書物のあの不思議な 材質で出来た金属のような紙に、あの象形文字のようなシンボル。 全てが同じだった。 何という事だ。 あの本を書いたのは他ならぬこのカトゥルンだったのだ。 彼は何かに取り付かれたかのように遮二無二に書き続けていた。 私は窓を見た。そして気付いた。 部屋の周りの空間が歪み始めたのを。 そして窓から見える街―――の上にある夜空に異変が起こっていた。 大気が集まり、まるで台風の目のように街の頭上に巨大な穴が開こうとしていたのが見えた。その穴 目掛けて周りに漂っていた雲が吸い込まれていくのが見えた。 何という事だ。 奴等は私達の事を忘れてなどいなかったのだ。 戦慄を覚え、私はカトゥルンのほうを振り返り―――そして絶句した。否、凍りついたといっても 良い。 最早カトゥルンが本を書いている手の動きは常人のそれではなかった。あまりにも早すぎる、まるで そこだけの時間が早められたかのように、手の動きが残像を残しながら動いていた。その度に夥しい 量の紙に真理が刻まれていったのだ。 だが私は我に返り、カトゥルンを止めようと語りかけようとした、が。 ドアが開いた。 私がドアを振り返ると、そこでハッと息を呑んだ。ドアの外側には廊下があるはずだ。 それが無くなっていた。見慣れた廊下がそこには無く、白い闇が何処までも広がっていた。 そしてその白い闇の中からあの黒猫が悠々とこちら側に向かって歩いているではないか。 私が後ずさりしたその時だった。 背後でカトゥルンが歓喜の雄たけびを上げたのは。
「出来た! 出来たんだよ!! 千ページに及ぶ真理が!!」
と。 私がカトゥルンに視線を移し―――そして叫んだ。 カトゥルンが不思議そうに言う。
「どうしたんだい? そんなに叫んで―――」
何とカトゥルンの身体のあちこちから身の毛もよだつような―――小さな青い穴が出来ていたのだ。 しかもその眼が―――。 目が眼窩から無くなっており、二つのぽっかりと大きな空洞が出来ていたのだ。しかもその両腕両足 は大きく歪んで捩れていたのだから。そしてその顔に張り付いた笑みは―――この上無くおぞましい 笑みだった。 周りの光景が更に歪む。 大気が震えた。 猫の鳴き声が私の身近に感じられた。 私が慌てて黒猫のほうに視線を移すと、黒猫はすでに白い闇の世界からこの部屋に侵入していた。 カトゥルンが引きつった笑みを浮かべたままヒステリックに何か笑っていたのが聞こえた。 そして黒猫が私に―――というよりカトゥルンに対してその視線を向けた。 ―――白い闇の光が輝いていた。 と、外のほうでは大気にぽっかりと出来た穴の中からヨグ=ソトートが姿を現し―――部屋の光景は もう完全に歪み、回転していた。 カトゥルンの笑い声、ヨグ=ソトートの咆哮、黒猫の鳴き声―――。全てが狂おしく、ぐるぐると 回り、交じり合った。 私の意思は慌ててその場から離れようとした、が。 黒猫が私に言ったのだ。極めて明快な意思の声で。
「逃げられないよ。君もすでにカトゥルンのようになっているのだから」
と。 私は見えないはずの己の腕を見た。 あるはずの無い腕が見えた。腕には青い小さな穴が斑点のように無数にあり、そして大きく腕が捩れ 曲がっていたのだ。 私は黒猫に対して叫んだ。
「お前は何者なんだ! 頼むから教えてくれ!!」
とヒステリックに喚き散らしながら。 窓からヨグ=ソトートの巨大な目がギロリとこちらを睨みつけていた。 黒猫が私の意思に語りかけた。
「私はアザトースだ」
と。 その名を聞いた瞬間、ヨグ=ソトートの巨大なエネルギーが街を、部屋を、そして哀れなカトゥルン と私を飲み込んだのだった―――。 そこから先は夢だったのか幻だったのか。 カトゥルンの身体の中からカトゥルンの意識体―――魂みたいなものがするりと抜け出して、己が 書き記した本の中に飲み込まれたのを。そして黒猫の中から白い意識体―――アザトースもまた本の 中に吸収されていったのだ。 そして本の中に収められた一枚一枚のページが大きく舞い上がった。 それらはうねり、回転し、捩れながら一枚一枚が生きた存在のように大きく脈打っていた。一枚一枚 が何かの意思を持つかの如く、嘲り、そして笑ったのを最後に私の意識は再び闇の中へと、何処までも 何処までも―――。
気付いた時、私は古本屋の中にいた。 目の前にはあの古本屋の主が立っていて、今まさに私に本を渡そうとしているその時だった。 私は自分で声にならぬ悲鳴を上げ、古本屋の外へ逃げようと、次の瞬間には出入り口に向かって脱兎 のごとく駆け出していた。 背後から古本屋の主が私を追いかける足音がしたが、私は外の闇へとその身を委ねんとばかりに それこそ全身全霊をこめて走った! 外の闇がまさにすぐ傍にあった。 主の手が私の足首を掴もうとしたまさにその瞬間、私は外の闇のとばりに身を投げ出したのだった ―――!! だが…次の瞬間に愕然となった。 外には闇夜のロンドンの町並みが広がっているはずだった。 だが…だが…ここに在ったのは漆黒の闇。それ以外に何も存在しなかった。そう、地面すらもだ。 私が半ば呆然とし、恐慌をきだしたその時だった。
「いかんですなあ…読んだ者は逃げられませんよ?」
恐る恐る振り返ると、そこには何も無き闇の空間にぽっかりと四角いドアのようなものが開いていて そこからは血のように真っ赤な光が漏れている。その灯をバッグに古本屋の主が立っていた。 それが己のあの能面のような顔に自らの手―――蛸のような触手を伸ばし、そして顔の皮を穿いた のだ!! その奥にあるその顔!! それは人では無かった!! 無数に在る目が頭にあった。例えるなら嗚呼…溶岩で固まった石のようにでこぼこで、そのでこぼこ の一つ一つの穴の中に目玉が収められているといえばいいだろうか? その特徴に私は慄然としながらも『ネクロノミコン』に記された忌まわしき記録を思い出していた。 絶望的なまでに。殆ど声にならぬ声だった。
「…ウムル・アト=タトゥル…ヨグ=ソトートの従者にして…多次元の門の守護者…」
それが目に笑みを浮かべた。
「そうだ」
と。 だが瞬時に私はこの存在が元は何なのか悟ってしまった。 あの本を読んだせいなのかは分からぬが、私の脳の中にいきなり、それが答えとして示され、映像と して浮かび上がったのだ。 私は半ば確信したように叫んでいた。
「…お前は…トラヴィール!?」
それがしばし考える仕草をする。だがやがて小さく「そうだ」と頷いた。 私の脳の中にあるヴィジョンでは彼―――トラヴィールはあの街がヨグ=ソトートによって壊滅した その時、商品の取引の為に街を出ていたのだ。そして街が壊滅したその時、彼は誰よりも一足先に カトゥルンの家の在ったところに駆け寄ったのだ。 そこで見たのは変わり果てた哀れなカトゥルンの死体。そしてあの本がバラバラになってページが あちこちに散らばってるのを。 トラヴィールは愚かにもそれをかき集め、読んでしまったのだ。その瞬間から彼は本の魔力によって 姿形を変えられ、本の守護者にして門の守護者ウムル・アト=タトゥルと化してしまったのだ。 だが厳密には彼は最早トラヴィールでは無い。 この本を読んだ者は本を次の者が読むまで死ねず、永遠に彷徨う定めなのである事を。 トラヴィールはすでにそれを誰かに読ませて死んだ。ただしそれは肉体的に、である。哀れな トラヴィールの魂は永遠に今のウムル・アト=タトゥルが持つあの本の中に永遠の苦悶と絶望と共に 閉じ込められているのだ。 そうかつてカトゥルンがヨグ=ソトートに受けたあの仕打ちのように。 ウムル・アト=タトゥルは何代にも渡って本を読んだ者が辿り着いた真理を求めた者らの残骸であり なれの果てだったのだ。 そして今こうして私が新たなウムル・アト=タトゥルに選ばれたのだ。他ならぬその本自身によって。 ヨグ=ソトートの、アザトースの精神が半ば実体化したその本によって―――。 ウムル・アト=タトゥルが私に近寄る。 そして私を次なる本の守護者に変えるべく、その背中から蛸のような触手が無数に突き出て、私を がんじがらめに縛り上げ、己が元に引き寄せようとした。 その時だった。 突然私の脳の中に天啓のごとく、素晴らしい妙案が閃いたのは。 私は『ネクロノミコン』に記された一節を大きく、高らかにあらん限りの力を振り絞って唱えた。
「ふんぐるい むぐるうなふ くとぅぐぁ ほまるはうと んがあ・ぐあ なふるたぐん いあ! くとぅぐぁ!! ええ・や・や・はあ・はあはああ! いぐないい! いぐないい! ふんぐるい むぐるうなふ くとぅぐぁ ほまるはうと んがあ・ぐあ なふるたぐん いあ! くとぅぐぁ!!」
ウムル・アト=タトゥルが息を飲み込む音がした。 と、私とウムル・アト=タトゥルの周りの闇が急激にはらわれ、恐ろしいまでの琥珀色の輝きに 包まれたのだ。その中、激怒と恐怖の漲る大音声が回りに響き渡った。そして…何千もの光の小球が 周りに発生したのだ。 ウムル・アト=タトゥルが私を離し、後ずさりした。明らかにこの火に怯えていた。 だがその時、私は見てしまった。 ウムル・アト=タトゥルは確かに怯えていた。 だがそれよりも怯えていたのはあの本そのものだったのだ。本がウムル・アト=タトゥルの腕の中で 激しく脈打っていたのだから。 その瞬間、私は全てを悟った。 私はそれよりも今まさにそこにやってくるであろう脅威から逃れるべく、ウムル・アト=タトゥルが 入ってきた門の入り口―――あの古本屋に繋がる入り口目掛けて走っていた。 ウムル・アト=タトゥルもそれに気付いたのか、慌てて私の後を追う。だが一足遅かった。 私は急いで古本屋のドアを閉めようとドアノブに手を伸ばした。 それが最善である事を何故か私は知っていた。私がドアをまさに完全に閉めようとしたその瞬間、 その隙間からウムル・アト=タトゥル目掛けて巨大な火球が迫っているのが見えた。 私が慌ててそれを完全に閉じた瞬間、僅かにあった隙間から意思を持ったかのような火が小さく チロッと吹き出たが、それは次の瞬間には消えていた。 しばしの沈黙。 やがて恐る恐る古本屋のドアを開くと、外には見慣れた夜のロンドンの霧深い街が広がっていた。 私はホッと溜息をついた。 そしてよろよろとロンドンの夜の闇へとありがたくその身を投げ出した。 これが夢では無い事はもう分かっていた。恐らく私の魂には永遠の安息は無いだろう。 ウムル・アト=タトゥルは一つだけ致命的な失敗を冒していたのだ。 それは偶然か必然か、私を次のウムル・アト=タトゥルにしようとしていた事だ。
…それが夢でない証に私の目にはぽっかりと暗い空洞が出来ていたのだ。 そしてトラヴィールはあの時本のページをかき集めたが、実は彼は気付いてなかったのだ。本の ページは実は千ページなのだ。彼が集めたのは999ページのみである事に。 では残された一枚はどうなったのか? 答えは簡単だった。 私が本がバラバラになったあの時、一枚だけくすねていたのだ。そしてそのページは私と同化して しまった。 …そう、私はすでにその時人では無くなっていたのだ。正確には人間のふりをしていたのだ。 何の事は無い。あの時私はすでに彼等の一体と成り果て、悠久の時をその時代、時代の知的生命体と なる事で今まで生き続けていたのだ。 …そしてあの本が何なのかをもう私は知っている。 私とカトゥルンは等しくヨグ=ソトートとアザトースの狂気の罠に陥ったのだ。 そしてあの本は哀れなカトゥルンの肉体とヨグ=ソトートの精とアザトースの意識体が合わざって 誕生したのだ。 そういう意味では私もあの本のページの一つだったのだ。 恐らく私はこれから悠久の刻をあの本との戦いに費やす事になるだろう。これは旧神らの導きなの かもしれぬ。何にせよ、それが私とカトゥルンの罪なのだ。奴等にこの世界を気付かせてしまった贖罪。 夜空に星が輝いた。旧神が私を祝福してくれているのだろうか。 私はそれを見上げながらこれからおこるであろう戦いに身震いした。
哀れなカトゥルン…ナイアルラトホテップとの永劫に等しい戦いに…!!!
著 ラバン・シュリュズベイリ博士
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