The Submarine Shrine〜 深海の崖の下〜
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                                                ラーンの網

 フレー島西方を荷を満載した船が帆走していた。半ば交易半ば略奪によって
得られた荷は故郷の人々が心待ちにしているものであり、ここ北欧では日常的
に見られる光景だった。

 舳に立つゴジのゲイルは、前方俄かに厚みを増す黒鉛色の雲と荷を交互に見
て苦々しく呟いた。
「あと少しで帰れるのに嵐か。今日は寝られそうにねえぞ」
 この季節、嵐はそう珍しいものではない。普段なら笑ってのりきる北欧人達
だ。だが今回は船荷を限界まで積みこんでいる状態だ。まともに嵐の只中に飛
びこんでは一溜まりもない。
 彼は大声で部下に指示を与え、航路をやや東よりに変更した。風向きや雲の
状態から判断してそれならば嵐のはずれをかすめるようにできるはずだった。
 だが熟練の彼の予想を裏切り、暗雲は着実に彼らの頭上へ頭上へと広がって
くるのだった。

 夜になった。必死の回避にもかかわらず嵐は彼らに牙を剥き出し、船は白い
巨波に弄ばれ身を捩って耐えていた。
「ゴジ、駄目です。汲んでも汲んでも間に合いません」
「馬鹿野郎! 口きく暇があったらさっさと汲み出せっ。おい、舵をしっかり持て。
女神ラーンのところに行きたいのかっ」
 その時一際巨大な波が眼前高く盛り上がった。白い波頭が剥き出しにされた
牙のように彼らに見えた次の刹那、エーギルのあぎとは固く閉ざされ、船体は
断末魔の悲鳴をあげはじけ飛んだ。ゲイル以下乗員達は猛り狂う荒海に放り出
されると、たちまち海中へと姿を消していった。

 いったい、どれほど経っただろうか。身を突き刺す寒気にゲイルの意識は
呼び戻された。たらふく海水を飲んだためにひどい吐き気に襲われながら周囲
を見まわす彼の視界に、部下の大半が倒れている姿が飛びこんできた。
「おい、しっかりしろ。起きろ」
 乱暴に肩をひっつかんで揺さぶるとうめき声がもれた。ゲイルは次々に部下
たちを起してまわった。幸いにも殆どの者がかすり傷がある程度で無事だった。

 ゲイル達の倒れていた場所は、彼らの人生で今まで見聞きしたことのない広
大な洞窟だった。明かりが差しているわけではないのに岩石それ自体が鈍い光
を放っているようで、満月の夜程度には明るいのだった。彼らの後方には渦巻
く水面が広がっており、一人が確かめると海水だったことから、一行にはここ
が海中に入り口を開けた洞窟のように思われた。
 洞窟はかなり奥深くまで続いているようだった。彼らはゲイルを先頭に奥へ
と歩を進めていった。

 洞窟は水平で時々左右に直角に曲がっており、その壁面には時に人心をざわ
つかせるような模様が浮かんでおり、ここが自然にできたものとは思いがたい
様相を次第に見せ始めていた。
 また、壁面は徐々に明るさを増してきているのは明らかであり、時には微妙
に明滅していることさえあった。誰一人として口を開く者もなく、まるで周囲
に潜む何物かの視線から逃れようとするかの如く、一塊となって奥へ奥へと向
かっていった。

 どれくらい歩いただろうか。不意に行き止まりになり洞窟は終わっていた。
もはや昼のような明るさの中、一行は無言でそれを見つめていた。苔のような
ものに一面を覆われているが、それは巨大な石の扉だった。ルーンとも南の諸
国のものとも異なる異質の文字或いは文様が中央に描かれ、その下には風化し
てはっきりとはわからないものの、魚とも蛙とも見える何物かの像が刻みつけ
られていた。

 その時、驚きの声があがった。
「おい、これを見ろ。すげえぞ」
 男が指差した先にあったものは扉の側の石柱上に置かれた丸い玉だった。青
碧に輝くそれは、まるでたった今しがたそこに置かれた物のように、苔らしき
ものもほんのわずかなちりさえも付着してはいなかった。

「おい、ちょっと待て」
 ゲイルが叫んだ時には遅かった。部下の一人がそれを手にしていた。
「馬鹿野郎、わけのわからん物にさわるな。そいつを戻せ」
「ゴジ、船荷も全部無くなった。だがこいつは金になる。ここから帰れりゃ俺
達は大金持ちだ。これだけはゴジのいうことでもきけねえ」
「きさまっ」
 ゲイルが飛びかかろうとした時ぱらぱらと降ってくる物があった。彼が上を
見ると、扉上部一面に亀裂が走っていた。一瞬地鳴りのような音が響き、思わ
ず一行があとずさると同時に扉は粉々に崩れ落ちた。土埃と共に、むせ返るよ
うな風が吹き抜けた。明らかに悠久の時を経た空気だった。
 扉の向こうは闇が広がっていた。ただ二つの光点を除いて……。

 突然褐色の平たい何かが飛び出すと、玉を手にした男を包み込み闇の中へと
戻っていった。闇の向こうから到底人間のものとは思えぬような絶叫が響き渡
った。

 船体の砕け散るような音と共に絶叫は静まり、水っぽい音が代わりに聞こえ
てきた。誰かが叫び声をあげた途端、皆一斉に走り出していた。
  ――ばちゃっ――びちゃっ――
 魚が跳ねるような音が彼らを嘲笑うかのように背後で急速に大きさを増して
きた。再度木がへし折られるような音と絶叫が壁面にこだました。誰一人振返
らなかった。
 何度同じことが繰り返されただろうか。もはや蒼ざめ引きつった顔で走りつ
づけるのはゲイルただ一人だった。

 ゲイルの足がふいに止まった。目の前には渦を捲く暗い海水が広がっていた。
呆然とそれを見つめる彼の背後で跳ねるような音がした。人間の性か彼は振返
り、それとまともに向き合うこととなった。彼は獣じみた叫びをあげながら転落し、
たちまち渦に捲きこまれていった。

 フレー島付近を通りかかった船が波間に漂う男を見つけたのは、嵐の翌日の
ことだった。
 男は間もなく意識を取り戻し、ヴェストランドのゲイルであると告げると、渦に
落ちる前に見たもののことを泣きながら話した。

「あいつは魚みたいだった。ぬらぬらした鱗がびっしりと生えてた。だけど、
ひれじゃなくて手足がはえてたんだ。指の間に膜があって、俺達が網で魚を獲
るみたいにして皆捕まえてしまったんだ。俺が吐き気がしたのは、あいつの顔
が人だったことだ」

 気のふれたゴジの噂はたちまちのうちに広まり、以後誰も彼の言うことにま
ともに耳をかそうとするものはなかった。

 一年を経ずしてゲイルは死んだが、その後無惨に打ち砕かれた船体と惨たら
しい死体が相次ぎ多数漂着するようになり、北欧中で次の章句が唱えられた。
「ニヨルドよ、エーギルのあぎとより我らを守りたまえ! ラーンの網より我らを守り
たまえ!」

解説:北欧人は波をエーギルのあぎとと詩的に表現した。ニヨルドは風と海に
関する豊穣神。エーギルは海神。ラーンはその妻で死者を網で絡めとる。ゴジ
は神官職と世俗権力を兼ね備えた首長と呼べる存在(主にアイスランドで)。
 
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