The Submarine Shrine〜 深海の崖の下〜
神 殿入口 諸神の間 図書室 彼 方へ
                                                                  水族館
 
  闇だった。
 深淵へと続く闇の中を私は何処までも降っている。
 時は1894年。
 私の名はピーター・アンダルフ。しがない貴族の末裔だ。三十歳にして半ば
世捨て人のような生活だが、財はそれなりに持ちあわせ、生活に困る事はない。
 普段の私はワシントンの古本屋を巡り、妖しげな書物を収獲するのが何よりの
喜びでもあり、趣味でもあった。

 だが私にはもう一つ趣味があった。それは様々な博物館など、そういったものを
巡り歩き、様々なものを見物する事だ。
 特に見世物小屋などにある奇妙な生物とか、博物館に時折展示される奇怪な
生物のミイラなどを観賞するのが何よりの楽しみでもある。
 時折、見世物小屋で見るもぞっとするような生物が展示される事もあった。
何処からどう見てもまがい物とは思えないような奇怪な顔をした人間である。
 何というか、首と顔の区別がつかない程に首が太く、その両目は恐ろしいくらいに
端っこへと離れている。おまけに鼻など、殆どペッタンコというくらいに平らだ。
 私は自分では民族差別者ではないと自負しているのだが、どうしてもこういった者を
人間とは思えなかった。

 まるで魚のようなあの顔!
 あれが私と同じような人間かと思うとゾッとする。
 話によると、これらの見世物小屋の怪人の多くはインスマスとかいう町から
やって来たそうだ。
 噂では忌まわしい近親相姦の結果、ああいう奇形になったと囁かれているが、
そのような事はどうでも良かった。
 怖い者見たさというか知的探究というか、その後も私の見世物小屋、博物館通い
は続いた。

 博物館では忌まわしい邪教の崇拝していた妖しげな像などが展示される事もある。
チュ―ルーの像とか、蛸とも烏賊とも思えないような奇怪な石像だ。
 不思議なことに私がコレクションとして秘蔵している『エイボンの書』という書からも
これらの見世物小屋に存在する奇怪な人間や、こういった像の事が断片的に
語られている。
 この事実に興味を持った私は各方面の知識人と文通を行うようになるが、その
関係は長続きはしなかった。
 多くが『エイボンの書』の名を言っただけで怖気ついて文通を断って来たのだ。

 そんな中、只一人だけ、文通を続けてくれた人が居る。
 ナイル・A・イムホテップというエジプト系アメリカ人の友であった。エジプト人の母に
アメリカ人の父を持つ彼は私の持つ『エイボンの書』に興味を示したらしく、自分の
知っているありとあらゆる知識を私に提供してくれた。
 その内容はにわかには信じがたい内容であり、キリスト教の神すらも否定するような
忌まわしい内容であった。
かつて人類が存在するよりももっと古い時代、地球や様々な次元で覇権を争った
古き神々の存在。
 それは『光』とか『闇』とかいう陳腐な言葉で表せるような存在などでは無かった。
例えるならそう……『混沌』。
 だがこれはリアリティーがある。
 我等が神と信じているのはただの幻想にすぎないものなのかもしれない。というより、
あくまで希望的願望にでしか過ぎないのかもしれない。
 もし我等の先祖がこれらの神々をかつて目撃したのならば、彼らはその恐怖に
耐え難くこれらの神々を信仰したであろう。
 信仰は自然に対する畏怖と恐れにより始まったとされているが言い得て妙だ。
 少なくとも『恐怖』という点では共通していたのだから。
 とにかくイムホテップからの手紙は信じられない内容ばかりであった。

 そして私はこの何とも言えない知的探究の魅力に取り付かれ、狂ったかのように
様々な書物を読み漁るようになったのだ。
 アーカムという街へわざわざ足を運ばせてミスカトニック大学図書館へ赴き、そこで
『ネクロノミコン』という書も読み漁った。
 これは持ち出す事はおろか、読む事すらなかなか叶わぬ書であったが、イムホテップ
の名前を出しただけで読ませてくれたのだ。
 どうも彼はこの辺り一帯ではかなりの権力者らしい。
 そしてあのインスマスもこのアーカムの街から北上したところにあると聞いた私は
好奇心も働いてかの地へ赴いた。
 そこにはあの見世物小屋の怪人以上のあまりにも醜い村人が何人も徘徊する
土地であった。あの見世物小屋の怪人はまだ目に知性の輝きがあったが、ここに
居る者らは多くが知性の輝きなど微塵も感じない瞳をしていたのだ。
 怖くなった私は早々にこの地を立ち去る事にした。

 この頃からだろうか。
 私はいつも何者かに見張られているような視線を感じるようになったのは。
 それは日毎に強くなっていくようだったが、私はそれでもこれらの出来事を調べるのを
諦めようとは思わなかった。
 そうして彼、イムホテップと名乗る人物との文通のやり取りは一年近くも続いただろうか。
 そして一年も過ぎ去った後であった。
 彼が私に「会いたい」と申し出たのは。
 勿論私は即座にOKの返事をしたためて送った。
 それがまさかあの悪夢の始まりになろうなどと想像したであろう…。 その日は気だるく
なるような激しい雨が降っていた。
 まるで滝のような激しい雨だ。

 そんな天気の中を私は馬車に揺られながら、アーカムの郊外を進んでいた。
 彼、イムホテップはやはり私の想像通り、アーカム一帯の権力者としてかなり
地位ある存在であった。
 アーカムのみならず、ダニッチの町の一部も土地として持ってるそうだ。
 そのような人物に会うのは緊張もしたが、同時に私は嬉しくもあった。少なくとも
こういった身分の者で私と同じような変わり者の変人が居るとは思わなかったからだ。
 ましてや、他の人々は知らないであろう禁断の知識を共に分かち合う間柄なのだ。
 そんな私の両手には『エイボンの書』が大事そうに抱えられている。
 彼、イムホテップがそれが本当に本物なのかぜひ鑑賞したいという事で持って来た
のだ。
 
「着きましたよ。お客さん」
 粗暴な運転手の声が馬車の中に響き渡る。
 私が馬車の中の窓から外を見てみると、はたせるかな。古い洋風の大きな館が
そこにそびえたっているではないか。
 四階建ての館の表面の所々ヒビが走り、変わりにツルが幾重にも絡み合いながら
壁を覆っている様は歴史をいかにも感じさせる。庭園は見事と言いたいくらいに
広々としていて、館の裏には鬱蒼と生い茂った原生林まである。
 やがて馬車はその動きを次第に遅くし、やがて完全に止まる。
 それからしばらく間をあいた後、いきなり馬車のドアが荒荒しく開かれる!
 思わず身構えたが、馬車の外にはあの運転手が仁王立ちになっているではないか。
 彼はピーターの顔を一瞥すると、何やら苛立ったように親指を立て「早く降りろ」との
催促を無言でするではないか。
(失礼な奴だ)
 少しムッとしたが、彼に催促されるままに馬車を降りる。
 だがその時、運転手が回りを妙に警戒するかのようにキョロキョロとしばし
見まわした後、そっとピーターに小さな声で囁いた。
「悪いこたぁ言わないですぜ。お客さん、あずこに立ち寄るのは止したほうがええ」
「? 何故だね?」
 ピーターがそれを尋ねた時であった。 ギャアア…
 何処からとも無く獣とも鳥ともつかぬ妖しげな鳴き声がしたのは。
 それは空から聞こえてきたように感じられ、どんよりとした黒雲に覆われた空を、
雨にうたれながら見上げてみたが、別に何も居ない。
 だが運転手はその鳴き声を聞いた途端、死人のように真っ青な顔をして、慌てて
馬の手綱を握ると、ピーターのほうを一瞥して言う。
「取りあえず警告はしましたぜ、お客さん! じゃ、さよならですぜ!」
 そう言うのが終わるか終わらないかの内に馬車が勢いよく、その場にピーターを
残したまま去ってゆく。

 それを呆然と見つめていたピーターだったが、その時であった。
 何かの影がピーターを素通りしたのは。
 慌てて空を見上げてみると、恐らく鳥かと思われる影が馬車の立ち去った方向へ
向かっていくのが一瞬見えた。
 だがそれは本当に鳥だったのであろうか?
 何か鳥とはかなり形態というか、形が異なっていたからだ。何かこう…まるでトカゲに
翼が生えたような感じであったが、恐らくは錯覚であろう。
 そこでピーターは、いつまでも雨に打たれていたら『エイボンの書』が台無しになる事に
気付き、慌てて館まで駆け足で走る。
 その時、微かに何処からとも無く断末魔のようなかすれた声が耳に入ったが、
それを気にする余裕もなく、そのまま走った。
 やがて走ってから三分もした頃にやっと玄関先に辿り着いたピーターはそこで
ぜいぜいと息を切らす。
 そして一呼吸して落ちつくと、ピーターはずぶぬれになった服をそれでもそれらしく
整えると、玄関の扉の真ん中に取りつけられたチュ―ルーの像を思わせるような
不思議な形をした像にぶら下がっていた金属の輪を掴み、それをがちゃがちゃと
鳴らす。

 しばしの静寂。
 やがて扉の奥のほうから人の足音がする。
 そして玄関の扉が開き、四十歳程の顎鬚をたくわえた紳士が出るではないか。
 それよりもピーターが驚いたのは、白人系の顔立ちをしているにも関わらず、肌が
真っ黒に色取られているという事にあった。まるで闇そのものといったような肌だ。
 彼は私の表情にさして気にした様子も無く、手を差し伸べてきて言った。
「私がナイル・A・イムホテップです。ピーター・アンダルフさんですね?」
 それを聞いたピーターは慌てて差し伸べられた手に握手すると、帽子を取り、胸に
置く。
 
「これは失礼。御察しの通り、私はピーターです。イムホテップさんまず非礼を
詫びます」
「いや、いいのですよ。私こそ非礼でしたな。このような大雨では召使に迎えに
送ってやれば良かったかもしれません。とにかく、お入りなさい。まずその服を
乾かさないといけませんな」
「ありがとうございます」

「ほほう。これが『エイボンの書』ですか」

 大広間の暖炉の火にあたっていた私にイムホテップが感嘆したように 言う。
 ピーターはというと、エジプトの神官が着衣していたかのような衣を身にまとって
いる。
  服がずぶ濡れになったのでイムホテップが変わりに、と渡してくれたものだ。

「ええ。それは本物だと思いますが ね」
「まあ、待って下さい。こういった書は今ではかなりの希少価値なので、贋作も
多く出回っています。少し読ま せてくれませんか?」
「それは構いませんよ」

 そう言いながらピーターはこの大広間を眺め 回して見る。
 かなりの年代のたったようなすす汚れた壁に、妖しげな絵が幾つも展示されている
ではないか。
  しかもその絵一つ一つを取っても、常人の感性では受け入られないような奇怪な生物の
絵が書かれているではないか。
  蛸のような姿をした怪物に全身がアメーバと思われる生物など…。
 しかも大広間のあちこちに飾り物として置かれているのは、博物館な どでめったにしか
お目にかかれないチュ―ルーの像に、その他の見た事もないような奇妙な像やら色々な
物であっ た。
 これだけを見てもイムホテップがいかにこういったものに情熱を燃やしていたか分かるという
ものだ。
  興味深くそれらを眺めていたピーターにイムホテップが言う。

「ピーターさん、そこの本棚にもっと様々な書物があ りますから読んでみるのは如何
ですかな?」

 言われてみて、隅っこのほうにぽつんと置かれ た今にも崩れるのでは、と思うくらい
みすぼらしい本棚のほうへ行き、そこの本のリストに目を通す。
 そこには 『暗黒の儀式』『屍食教典儀』『ナコト写本』『ダゴンへの祈り』など、かの
『ネクロノミコン』に匹敵する程のありとあらゆる書物がそ ろっているではないか。
 イムホテップの邪神に対する博学ぶりはこれらの書物から得たのであろう。
 心ならずも ピーターはイムホテップが羨ましいと思った。
 その財産にではない。これらのコレクションをそろえたという事実に対してだ。
  それらの書を時間も忘れるほど読みふけってどのくらいしただろうか。
 イムホテップが驚嘆したようにピーターに言ったのは。

「素 晴らしい! これは素晴らしいですよ!」

 いきなり言われたので呆然とするピーターであったが、イムホテップは そんな事も
おかまいなしに『エイボンの書』を取り上げて、言うではないか。

「これは間違い 無く本物ですよ。しかもこれは他の『エイボンの書』に欠けていた
部分も殆ど全部そろっている! これがもっとも保存状態の良い『エイ ボンの書』
と言えますな」
「本当ですか!?」

 思わず歓喜の声が上が る。
 内心、これは贋作なのではないかという疑いをつねに持ち続けていたからに
他ならない。
  何しろワシントン郊外の寂れた古本屋の片隅に転がっていた上に、殆ど捨て値
同然の値段で購入したからだ。
 とん だ宝を拾ったものだ! と内心小躍りしていた。
 イムホテップは『エイボンの書』をピーターに渡すと、嬉しそうに言った。

「い や、貴方のおかげで私の知識の足りない部分が埋められました。この殆ど完全に
近い原本を長年捜し求めていたのですが、なかなか見つか りませんでしたのでな」
「お役にたてて何よりです。どうですか、これらの知識についてゆっくり語り合いませんか?」

  その言葉にイムホテップは微笑み、ピーターの肩を叩きながら言う。

「そうですな。では早速召使に頼んで夕食の準 備をさせましょう。夕食でもしながら
ゆっくり語り合うとしましょう」
「ええ」

  何となく二人して顔を見合わせて互いに笑い合う。

 こうして館に滞在して何日も過ぎたであろうか。
  その間にかわされたやり取りは実に充実したものであった。
 イムホテップとどのくらい禁断の知識について語り合ったであろうか。
  その結果、私も大体の事を知った。
 かつて人類以前に太古の種族の文明が存在し、その文明以前にありとあらゆる
次 元を支配していた”旧支配者”と呼ばれる神々が存在した事を。
 クトゥルー、ヨグ=ソトホート、シュプ=二グラス、ツァトゥグァなど の邪神。
 それらの邪神が一族を増やしながら密かに復活の機会を待っている事。
 特にクトゥルーとヨグ=ソト ホートの信者は多いらしい。
 興味深いのはこうした神々を今なお信仰している者もいるという事だ。
 イムホテッ プによればインスマスの住人は忌まわしい近親相姦の結婚のみならず、
その先祖のオーベッド・マーシュという町の有力者が南洋交易の際 にクトゥルーと
取引をかわし、その結果魚人間が生まれるようになったという事らしい。
 それはクトゥルーの従者 たるダゴンの血を受けつく子供達らしい。
 これらを俗に”ディープ・ワン”と一くぐりにまとめているそうだ。
  他にも万物の王にして痴愚の神たるアザトースなど、得がたい知識の数々を知った。
 この時点で私は気付くべきだったのだ。
  イムホテップが”知り過ぎている”という事に…。
 それに今考えればおかしい事もあった。
 食事など様々なもの が準備されているにも関わらず、私は彼の召使の姿を
見た事が無いのだ。
 数日見ないならともかく、それが1週間 も過ぎれば疑問にも思う。
 だが彼にその事を尋ねると、召使は朝早くにここを訪れ、夕方に帰るそうだ。
そして酷 い恥ずかしがりやで、客に自分の姿を見せたくないそうだ。
 私は怪訝に思ったが、何しろ客の身分だ。彼の言葉に頷くより無かった。
 … そして運命の日は来た。

その日は始めてここを訪れた日のように凄い大雨だった。
 まるで 滝のように凄い雨で一寸先が見えにくい程だ。
 そんな気だるい天候の中、私は彼が用意してくれた部屋のベッドから目覚めた。
  時間を確認してみると、すでに昼過ぎだ。

(こんなに眠っていたのか?)

  そう内心驚きながらも、名残惜しそうにベッドの中から起き上がる。

「?」

  そういえば彼はどうしたのだろう。いつもは私を起こしてくれるのに、今日に限って
起こしに来てくれないではないか。
  そう思いながらも部屋から廊下に出る。
 廊下は薄暗かった。いつも薄暗いのだが、その日は特別闇が濃いように感じられた。
  そう感じながらもピーターは廊下を奥へ向かって歩き出す。
 廊下から覗ける窓から見て見るが、外は相変わらず凄い雨だ。
  いつもならこのまま通りすぎたであろう。
 だが私の視界に一つのものが目に止まった。
 滝のような雨の中を、中 庭のど真ん中で二人の男が立っているではないか。
 一人はイムホテップだ。だがもう一人と来たら何とおぞましい事か!
  水ぶくれでもしたような肌にひらぺったい顔つき。
 その特徴はインスマスの住人を彷彿とさせたが、何しろ黒い帽子とマフラーで顔の
大 部分を隠している為、ハッキリそれとは分からない。
 だがイムホテップは何の為に彼と話しているのだろうか?
  話なら中でも出来るはずだ。それを何故わざわざこのような雨の中を二人で話して
いるのか。
 どうやら話が終わっ たようだ。
 イムホテップが屋敷に向かって歩き出すではないか。例の男は…そのまま正面の
正門から外へ向かって 何処かへ去って行くところだ。
 私は何か見てはならないものを見てしまったかのような感触を覚え、慌てて窓から
離 れるが、離れるその一瞬、イムホテップが顔を見上げ、一瞬私と視線が合った。
 その時、彼が一瞬笑みを浮かべたように見えたのは気の せいであっただろうか…。

「ピーター君、アーカ ムの一角に水族館が完成したそうだ。ついでは私と一緒に
それを見てみないかね?」

 その 夜、彼イムホテップが食後の一時に私にそう語りかけたのだ。

「水族館? そんなの別に珍しくも何ともないね。僕 は博物館通い狂でね。
水族館など飽きる程、ワシントンで見てきたよ」
「まあ、そう言うな。これは私がオーナーを 務めて、やっとつい先日完成したばかり
の水族館なのだ。普通の水族館とは趣向が違うようこらしている。何、私の酔狂
だ よ」
「ほう、そんなに違うのか」

 にわかに興味を持ち出した私にイムホテップは笑みを浮か べながら言うではないか。

「ああ、世界のどの水族館よりも特別だ。君の好奇心を満足させられるだけの用意は
し てあるよ」
「面白いじゃないか。僕を満足させられる程とは大きく出たね。いいじゃないか。
その水族館は何処にあ るんだい?」

 ピーターが質問した時、イムホテップはその顔をこれ以上は無いのではないか
と いう程の大きな笑みを浮かべる。
 そしてまるで召使のようにうやうやしくかしこまったポーズをしてみせると言う。

「で はピーター君、今からそこへ案内しよう」
「今から?」

 外は滝のような大雨のはずだ。幾ら 近くにあったとしてもずぶ濡れになるだろう。
 躊躇するピーターの気持ちが分かったのか、イムホテップは首を大げさに左右に
振っ てみせる。

「誤解しないでくれたまえ。このような大雨の中を外へ放り出す程、私は酔狂
では ない。ここの地下室がそこへ通じているのだよ」
「地下室?」

 不思議そうに尋ねるピー ター。
 それもそうだ。ここに滞在して何ヶ月もたってる間に館の隅々まで歩き回った
のだが、地下室らしき扉は無 かったのだから。
 そこでイムホテップが悪戯ぽっく笑みを浮かべるではないか。

「ピーター 君、君が地下室の存在を知らなくて当然だよ。何しろこの館は南北戦争
の折りに敵に攻め込まれた時の避難にと、隠し通路を作っておいた のだからな。
私はその隠し通路から行ける部屋から更に通路を作っておき、その水族館へ
行けるようにしたのだ」

  これで納得がいった。
 確かに古い館というのは何処かに隠し通路だの、隠し部屋だの、そういった
ものを何処かに 必ず作っていたものだ。
 この館もその例に漏れず、そういったものがあったのだろう。

「面 白いね。是非その秘密通路に言ってみようじゃないかい」

 それで決まりだった。
 そして私 が案内されたのは大広間だった。大広間の天井に取り付けられている
とても奇妙な曇り硝子の窓からは、時折雷の光によって一瞬、大広間 に不気味な
までの色彩を見せるではないか。
 そんな中をイムホテップは例のチュ―ルーの像のところまで近付く と、そのチュ―ルー
の像にうやうやしく手を置き、そしてチュ―ルーの像を180度回転させる。
 すると鈍い音と 共に、数々の魔書が収められた本棚が内側から押し出されるように
前へ動き、それが終わる頃にはぽっかりと狭い通路が続いていた。

「良 く出来た出来だな」

 感心するピーターにイムホテップは「こんな事で感心してもらっちゃあ困る」とでも
言 いたげな表情を浮かべると、「ついて来たまえ」と顎を動かして促す。
 そして私はイムホテップの薦めのまま、その通路を通ったのだ。
 
そして現在私はここに居る。
 何処までも闇が続いている階段の中をひたすら降りつづけている。
 …たった一人 で。
 そう、彼イムホテップは館に残っている。ここは私一人だけだ。
 この階段を何処までも歩けば、やがて水族 館への非常口があると聞いたのだが、
何処までも降りても果てというものが無い。
 まるで地球の中心に向かって歩 いているのでは、と疑いたくなるくらいだ。
 第一私はここの階段に入ってからそれくらい降りつづけたのだろうか?
  三十分? 一時間? 二時間? …それとも一日?
 そう思いたくなるが、実際はそんなに時間はたってないだろう。
  だがこの圧迫するかのような闇に覆われた肩幅ギリギリの狭さの階段の中を
歩いていると、嫌でもそう感じさせるを得ない。
  閉所恐怖症に暗所恐怖症の人の気持ちが今となっては痛いくらいに良く分かる
というものだ。
 今更戻ろうにも、こ の階段をまた上へ向かって歩き続けるのも馬鹿馬鹿しい。
 それに上も下ももはや先が全く見えないくらいの濃い闇に覆われていたのだか ら、
昇って帰ろうなどという気持ちもしぼむ。
 結局のところ、先に進むしかないだろう。
  そう判断した私は更に闇の奥へと向かって降り始めた。
 後にして思えば、その奥の闇は猛獣が獲物を待ち構えるかのようであった。
 … それからどのくらい進んだだろうか。
 やがてピーターは足を止める。
 目の前にぼんやりと行き当たりの壁が見え たからだ。
 そこへ行って見ると、レンガで隙間無く敷き詰められている。そしてその壁の隣…
つまり左手側の壁に ドアが一つ取り付けられているではないか。

「ははあ、ここが終着点だな」

  そう呟きながら、ノブに手をかけると、ドアはあっけなくすんなりと開いた。
 ピーターがドアから内側に入ると、そこは完全な闇では無 かったが、それでも
薄暗い闇の中だった。
 しかし階段のように狭いという訳でもなく、いや、むしろ広すぎた。
  とても綺麗な水色の床に、大理石で作ったような円柱が何十本も続いている。
 何か先時代の遺跡の中のようにも見える。
か といえば近代的な部分も数多く見受けられる。これがイムホテップの言っていた
特別な趣向なのだろうか。
 そう疑 問に思いながらもピーターが辺りを眺め回していた時であった。

「ピーター・アンダルフ様ですね?」

  いきなり背後から声をかけられたので慌てて振り返ってみると、一人の美しい
神秘的な女性が立っているではないか。
  赤毛の長髪が肩まで伸びている美しいその女性にピーターは驚いたが、女性は
気にした風も無い。

「あ、 ああ。そうだが、何故僕を?」

 それだけがやっとだった。我ながら情けないと思う。
 女性 は神秘を湛えたその瞳でピーターを眺め回すと答えた。

「ええ、イムホテップ様が『客人が来るからお迎え差し上げ ろ』とおっしゃられて
いたので。私はこの水族館の案内人ですわ」
「成る程…で、彼が言っていた変わったものって 何だい?」

 その言葉に女性は微笑むと、廊下の奥へと向かって向かって歩き出すではないか。

「案 内致します。ついて下さい」

 言われるがままに彼女についていって、やがてフト何気なく天井を見上げてみると、
何 とした事であろうか。
 天井は水が浮かんでいるかのようであった。
 良く見れば硝子張りのようなものが見える。

「こ こ、ミスカトニック河の下に作られているのかい?」
「…そうで御座います」

 即座に答えな かったのに多少疑問を持ったが、それでも黙って女性についてゆく。
 しかし見れば何と幻想的な光景であろうか。まるで深海の底を歩い ている
かのような感じだ。
 例えるなら深海の奥に空気のある世界があり、その中から上を見上げているような
感 じだ。水族館としてはなかなか意表をついていると思う。
 どのくらい歩いただろうか。
 やがて女性が足を止め て、ピーターのほうを振り返ると言った。

「…ここから先がその変わった趣向です。ここから先はピーター様一人で どうぞ」
「ああ」

頷いてピーターがその部屋に入ると、薄闇の中に青白い光があちこちから漏 れる
巨大な吹き抜けのホームだった。天井は暗くて良く見えない。
 そして階段はというと、これまたまるで古代の 遺跡を思わせるような凝った造りに
なっていた。
 まるで過去と現在が一緒になったような不思議な場所である。
  ためしに一番近い、青白い光の漏れる所へ近寄ってみると、水槽の中を不気味な、
見た事も無いような魚が泳いでいるではないか。
  だがすぐにそれが何なのか悟った。
 魚の図鑑に書かれていた深海魚という奴だ。
 だが深海魚など腐る程、ワシン トンの水族館で見てきた。どうやら、ただ建物の
造りが変わってるというだけで、展示されているのは至って普通らしい。
  多少がっかりしながらもピーターが次の水槽に目を移そうとした時であった。
 その水槽の隅っこに何か動いたのだ。
  それに気付いて隅っこに視線を集中させてみると、何とそこには見た事のある
生物が浮かんでいるではないか!
 と いっても、生きたものはこれが始めてだ。
 何しろその生物は何万年も前に滅び、すっかり化石としてしか、見る事の出来ない
も のだったのだから。
 蛸を思わせるような顔にカタツムリのような貝殻がくっついたその生物…アンモナイトは!
  慌てて他の水槽を見てみると、深海魚の他にもかつての先時代に滅びた生物がそれに
混じって動いているではないか!
  カブトガニ、シーラカンスは勿論、三葉虫など化石でしか見た事の無い魚や生物が数多く
生息しているのだ。
 それ だけでも凄いというのに、更にピーターを驚かせたものがあった。

「これは!?」

  ここでひとぎわ大きい水槽に近付いたピーターは驚愕のあまり叫んだ。
 青白い水槽の奥で巨大な生物が悠々とその巨体をうならせながら 泳いでいたのだ。
 それは…プレシオザウルスだった!
 細長い首を揺らしながら泳いでいる様は幻想的であった。 いや、神秘的ですらある。
 伝説などにしか現れないシーサーペント。ネス湖の怪獣。どれも全くの夢物語と思って
い た。だがその生きた標本が現実に目の前にあるのだ!
 その喜びと来たら、何にも変え難い。

「素 晴らしい、素晴らしいよ。イムホテップ!」

 興奮のあまり叫ぶ。
 この水族館は間違い無く アーカムを名所に変えるだろう。
 そして考古学者がよだれを垂らしながらここに見入るだろう。
 その光景を想像 すると愉快で堪らなかった。少なくとも私が最初の栄光ある客の第一号
なのだ。
 満ち足りた気分でピーターは引き 返そうとした。
 だがその時、このホームの中心に奇妙な形をした螺旋階段があるのに気付いた。
 その螺旋階段は 何か大理石とは違う異質な石で造られた階段であり、まるで
人間以外の何かの為に造られたとしか思えない階段であった。
  肌さわりも妙に冷たい。
 だがこの階ですら、このように素晴らしい生物がいたのだ。この奥に行けばもっと
凄いも のがあるかもしれない。
 そう思ったピーターは何の躊躇いもなく、その大きな螺旋階段を下へ向かって
降りる。

十分くらいたっただろうか。やがてピーターは終着点へ辿り着いた。
 そこでピーターは硬直したように足を止めた。
  その部屋には中心に巨大な水槽があったのだ。
 その水槽だけがこの部屋の全体の八割を占めているのだ。だが驚いた事はそんな事
で はない。
 その水槽は硝子が無いのだ。
 つまり本来なら硝子張りの中に大きな水を注いで水槽とするのだが、その 硝子が
無いのだ。どういう原理かは知らないが、水がそこにぴったりと静止しているのだ。
 言い返れば水が四角の 形に浮かんでいる、という事になる。
 だがここは先程とは違って、水槽の中が濁っていて良く見えない。
 近付い て見ると、何やら奥のほうで影が動いたように見えた。
 ピーターはその影が何なのか突き止めるべく、身を乗り出した、とその時!

ザバア!

 いきなり水槽の中から青色の鱗がびっしりと生えた腕が突き出て、ピーターが驚く間も
無 く、その顔を掴むと、水槽の中に引きずり込んだ!
 驚愕に満ちた眼差しで自分を引きずり込んだそれが何なのか見定めようと、
そ れに目を向けた瞬間、ピーターは声にならない叫び声を上げた!
 …人間のような体格に鱗がびっしりと生えたそれ、魚人間が無数にその 水槽の中に
いたのだ。

(ディープ・ワンだ!)

  ピーターが泳いでその水槽から外へ逃げようとした時であった。
 その水槽の外側にいつの間にか先程の女性が立っていて、ニヤニヤとこ ちらを
見ているではないか!

(助けてくれ!)

  そう水の中で言いながら腕をその女性にのばした時であった。
 女性の顔が生気を失ったかのように急激に青ざめ、しぼんでいったのは!
  そしてその口を、裂けるかと思われるくらい大きく開いたのだ!

ゴボッ!

  同時に女性の口から蛸の足が突き出たのだ!
 そしてそれにともない、女性の身体のあちこちがボコボコとまるで内側から何者か
は い出るかのように動き出したのだ。
 そして女性の服が裂け、その内側から赤いチューブを無数に繋ぎ合わせたかのような
触 手が突き出て、そして女性の身体がビリビリと裂け、その中から蝙蝠のような翼を
生やした、蛸ともつかぬような生物が出現した!
  その時、私は口の中に大量の水が流れ込むのも構わず、大きく口を開いて絶望の
叫びをあげた!
 何という事だ。女 性はハイドラだったのだ!
 ハイドラがその見るも醜悪なその瞳でピーターをとらえると同時に、先程まであった
妙 に近代的な外観が、まるで映画の切り替わりのように一瞬にして消え、変わって
古代の神殿が周りに広がる。
 海の 中の何処かの古代神殿・・・ピーターはここが何処なのか絶望的なまでに知っていた。
 『ネクロノミコン』に書かれていた三節を今思い 出していた。

   ルルイエの館にて死せるクトゥルー夢見るままに待ちいたり

    そは永久に横たわる死者にあらねど
   測り知れざる永劫のもとに死を超ゆるもの

  ピーターがもがいて、背後を振り向くと、そこには巨大な魚の神が闇と共に在った。
 その神の周りでディープ・ワン達が賛美歌を歌って いた。
 水の中なのに彼らの歌が脳裏に響き渡る。
 彼らはこう歌っていた。おおよそ人間には発音出来ないような 発音で!
 あえて人間に表現出来る言葉で表すならこうなるだろう。

「ふんぐるい むぐるう なふ くとぅるぅ るるいえ うがふなぐる ふたぐん」

 やがてその巨体を持つ魚の神とハイドラがうやうやし く、頭を足れ下げるではないか。
 …何かがその奥の闇の中から目覚めようとしていた。
 それは闇という存在をは るかに超越した存在だった。
 その姿と来たら…おお神よ!
 僅かに見せたその姿ですら、見る者を狂気へと叩き込 むだろう。
 その時私は心の底から絶望的なまでに後悔した。
 私は知りすぎたのだ。
 奴ら 邪悪な神々の秘密を・・・。

以上を持って私の日記は終わる。
 私は生きる為に彼らと契約 をかわした。
 その契約の代理人は彼、イムホテップである。
 彼は言った。
 オーベッド・ マーシュがかつて我々と契約をかわしたように汝もそうせよ、と。
 そして彼は続けて言った。
 インスマスにアメ リカ政府が目をつけている。そして彼らによってインスマスが
徹底的に破壊される事もまた彼は言っていた。
 そし てクトゥルー教団が途絶えない為に私を第二のオーベッド・マーシュとして
選んだ事も言っていた。
 我が子孫達 よ、君らがこれを読んだのならばどうか許して欲しい。私は己の
命の保身の為に我が子孫の全てを彼らにゆだねてしまったのだ。
  今思えば後悔だらけだ。
 私は彼の名前を聞いたとき、何故気付かなかったのだろう。
 ナイル・A・イムホテッ プ。
 ナイル・アトゥ・イムホテップ。
 いや、これ以上は言うまい。まさか彼こそが『無貌の神』であり、『這い 寄る混沌』
だったとは…。
 何という愚かな事だ。私は己の好奇心の為にみずみずこの悪魔の手の平に
自 ら飛び込んだのだ!
 私は生涯、己のなした事に対する罪悪感に苦しめられるだろう。




  1927年。7月22日日付け。

 ついに来たるべきものが来てしまった。
 アメリカ政府が インスマスの街を襲撃、住人の大部分を殺害したあげく、『悪魔の暗礁』
を破壊と新聞にある。はからずも彼の予言が現実のものとなった のだ。
 その日からだ。私の身体に青色のあの忌まわしい鱗が生え始めたのは…。
 これは子供にも及んでいる。
 … だがもう悔いは無い。私はいずれ深き者の一人として偉大なる我が主の元へ返る
日々を期待しているようだ。
 私は 頭が可笑しくなったのかもしれない。
 いや、これが奴らに魂を売った者の末路なのだろう。
 この日記は目に届か ない所に隠しておく。
 まだ私の意識がハッキリしている今の内に…。
 これを見つける事が出来た我が子孫よ、こ の私の犯した過ちを償ってくれ……




 以上を持っ て、これが一族の者を皆殺しにしたあげく、自らもこめかみに銃を撃って自殺
した稀代の殺人者ロバート・アンダルフの残した証拠品であ る。
 彼は幼少より精神を病んでおり、そこへ先祖のこの日記を読み、これを事実とし犯行に
及んだものと見られ る。
                      1968年。ワシントン警察署長の報告書より。

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