The Submarine Shrine〜 深海の崖の下〜
神 殿入口 諸神の間 図書室 彼方へ
                                                蒼空の深淵
 
   もう随分遠い昔の話になってしまった。これは私が戦闘機乗りとして大空を
舞った遥か昔の物語だ。

 当時、私は南方で戦うとある零戦隊の一員だった。ミッドウェーで機動部隊
の中核たる空母四隻と多くの精鋭搭乗員を失って以来、我が軍の優勢な状況に
は俄かに翳りがみえはじめたとはいうものの、まだまだ零戦自体は米軍機に対
し多くの点で勝っており、我々は日々蒼空に敵機を追い求めていた。

  あの日のことは今もはっきりと思い出すことができる。暦では冬に入った頃
とはいえ、南方の前線では常に茹だるような暑い日だった。私が所属する隊は、
その日も偵察機からの情報を元に敵機を求めて遥か遠方の空にあった。薄い雲
はあるものの視界良好であり、はるか下の紺碧の海面は戦時の緊張をふと忘れ
させるような美しさをみせていた。

 ふと右斜め下方を見た時、微かにチカッと光ったような気がした。目を凝ら
してみると、果たせるかな敵の編隊を発見した。隊長機を見るが、まだ気がつ
いてはいないようだ。無線封鎖中であったのでややスロットルを入れ、隊長機
の横に出て敵編隊の方向を指し示すと、わかったと合図をされた。
 敵編隊は二時の方向からこちらのかなり下方を斜めに横切るように進んでく
る。かっこうのかもだ。

 暫く後、我が隊は隊長機の急降下に続き、全機猛然と敵機に襲い掛かった。
 隊長機の機銃が火を吹き、たちまちのうちに敵機は黒煙を上げて落ちていっ
た。ようやく我が隊に気がついた敵編隊は大混乱に陥っている。私も眼下の一
機に照準をあわせ機銃弾を叩きこんだ。敵機はたちまち炎上し落ちていった。
 仲間達もそれぞれ獲物をしとめているらしく、戦闘開始直前に解除した無線
から歓声が聞こえてくる。私も次の獲物を求め旋回しようと操縦桿を左に倒し
たその刹那、左翼付近に猛烈な衝撃を感じた。
「しまった」
 咄嗟に声をあげ後方を振り返ったその時、黒い鳥のようなものが一瞬見えた
気がした。急いでもう一度確認したがもはや何の姿もなかった。そう、鳥のよ
うなものも、後方にいるはずの敵機の姿もなかった。きつねにつままれたよう
な気分になりながら、慌てて機体の損傷を確認する。左翼端の一部が剥がれて
桁が見えている。これでは激しい空中戦は困難だ。

 一時離脱して態勢を立てなおそうとした時、仲間達の悲鳴が耳に飛び込んで
きた。見ると、なんということだろう……炎に包まれ黒煙をあげて落ちていく
のは我が僚機ではないか! 我が部隊の搭乗員の技量は確かだ。ここまでたや
すく落とされようとは俄かに信じがたい光景だった。
 呆然としている私の前に幾筋かの光が流れている。撃たれているのだ。咄嗟
に操縦桿を左に倒し、バーを踏みこんで回避する。後方に一機私を撃った敵機
が見えた。今の私の機体では無理はできない。とにかく逃げることに必死だっ
た。

 どれくらい時間がたっただろうか。編隊を組めという隊長の声が聞こえた。
周囲を見渡すと既に空戦は終わっており、遠くに去りつつある敵編隊と少し上
空で編隊を組みつつある我が隊が目に入った。私も急いで加わる。隊は半分に
減っていた。敵は最初の一撃で落とした五機あまりの損害しかないように思わ
れる。信じがたい敗北だった。

 機体損傷のため不安定な愛機を操り続け、やっとの思いで飛行場に滑りこみ、
整備兵に機体を預けた。戦果報告をしようと向かう私をその整備兵が大声で後ろ
から呼びとめた。私に来て欲しいと言っている。珍しく被弾したのでそのことだ
ろうと思って近づいた。
「これを見てください」
 深刻な顔をして彼は言った。
「こんな弾痕は今まで見たことがありません。いったい何にやられたんです
か?」
 私は黙って愛機の傷痕を見るしかなかった。そこにあったのは弾が貫通した
ものとは全く異質の、何かが引き裂いたように異様に捲られたジュラルミンだ
った。

あの日以来戦況は微妙に変化をみせた。熟練の我が隊でも一人また一人と戦
空に散るものがでるようになった。 当初は、敵が新型機を投入したのではない
かという話もでたが、数度の空戦を経るうちにそれは否定された。我々搭乗員
の目には、見なれた機体としか見えなかったからだ。それでは、敵はそれまで
の機の改良型を新たに投入したのだろうか? 例えそうであったにせよ、小手
先の改良では零戦を大きく凌ぐ性能を発揮するとは考えにくい話だった。結局
何も得られぬまま、優秀な搭乗員と機体だけが失われていった。

 年が明けた。だが、我が隊には明るい正月にはならなかった。この数ヶ月間、
我々に対する風当たりは日に日に強くなっていった。聞くところでは、このよ
うな被害をだしているのはここだけで、他所ではそれなりに戦果は上がってい
るとのことだった。暗澹たる空気が低く重く立ち込めていた。

 最初の空戦時に受けた我が愛機の損傷部分は、調査のために内地へ送られて
いた。後にわかったことだが、技術者はその状態に強く興味を持ったのだが、
軍上層部はたいして気に留めていなかったらしい。この時徹底的な調査が行わ
れていたら、或いは、あの戦史上から抹消された悲惨な空戦を回避できたかも
しれないと今も慙愧に耐えないものがある。それは次のような戦いだった。

 我が隊は爆撃機隊の護衛として上空を飛行していた。この頃にはこちらから
敵機を求めるようなことは決してなく、ただただ一機でも敵機から守ることが
我々の最大の任務になっていた。予想された敵には一向に出会うことは無く、
長時間の飛行で我々も緊張の糸がやや緩んだのかもしれないまさにその時だっ
た。

 目の前に光の雨が降った。思わず見上げた上空、陽を背後にはっきりと見え
るほど大きな敵機の姿があった。
「くそっ、油断した」
 愛機を回避行動に移すのと目の前を敵機が過ぎるのは同時だった。たちまち
激しい空戦が開始された。敵機の数は幸いにも我が隊よりは少なかった。各機
は皆今日こそはの思い強く、勇敢に敵に食らいついていった。

 だが何故だ? 何故我が爆撃機隊が墜ちていくのだ? 普通撃たれる時には曳
光弾が線をひいて見える。だが、我が眼前の機体は周囲に何も見えないのに突
如として穴だらけになり、火達磨となっていくではないか。

 気がつくと全身に滝のような汗が流れていた。己の目に飛び込んでくる信じ
がたい光景、無線から聞こえる阿鼻叫喚が私から冷静な思考を奪っていた。
 私は獣じみた叫びをあげ、右へ操縦桿を一杯に倒しこんだ。そちらには太陽
があった。陽光が我が目を射抜くその寸前に私の目に焼きついたものを今でも
思い出すことができる。それは巨大な蝙蝠状のなにものかの姿だった。

 視覚を失った間に撃墜されていたほうがましだったかもしれない。やっと取
り戻した視覚で私が見たものは、曳光弾が外れているのに突如として機体の
超々ジュラルミンが捲れあがり、制御不能となったところに機銃弾を叩きこ
まれて火を吹く僚機の姿だった。

 なす術はなかった。敵の射線を外しても機体は損傷し、次の瞬間蜂の巣に
されていく。今までの空戦ではこれに気がつく余裕はなかった。気がついた者
はおそらくいただろう。だが次の瞬間には物言えぬ身と成り果てていたに違い
ない。そう思う私もまた激しい衝撃にみまわれている。私は死を覚悟した。
 何故か、思わず目を閉じた私にそれ以上の衝撃はなかった。
「ええい、ままよ」
と叫んで機体を水平にして――空戦時に決してしてはならない鉄則だが――周
囲をみたが、そこに敵機の姿はなかった。遥か遠方へと去っていく姿を見つけ
たのは暫くたってからのことだった。どこにも味方の姿はなかった。私はただ
一機で辛く長い帰路を辿らなければならなかった。

 ようやく飛行場が見えた時の安堵の気持ちはいまだに言葉では言い表せない。
この時ほど神に感謝したことはない。だが、出迎えの皆の表情がおかしい。目
をそらすもの、凝視するもの、表情のよく読み取れないものもいる。
 私は操縦席からよろめきながら降りると、すぐに担架に乗せられた。それく
らい私は自分でも気付かぬ重症を負っていたのだ。
 担架で運ばれながら愛機を見た私は直後気を失った。私が見たのは、機体に
半円形に刻まれた幾条かの長い爪痕だった。

この戦いの後、速やかに緘口令が敷かれた。事態の異常さはさすがに誰の目
にも明らかであり、皆不安な面持ちではあるものの、何事もなかったかのよう
に振舞った。機体は内地に持ちかえられ、今度は徹底的な調査を受けることと
なった。

 私は思いのほか重症だったこともあり、治療のためと先の空戦の調査のため
に一時内地へと送り返されることとなった。もっとも、高熱に苦しんでいた
私には詳細は一切告げられることはなかったが。私と分解された愛機は、特別
に用意された一式陸攻で共に日本の土を踏んだ。

 内地に帰った私は軍医も驚く回復ぶりをみせ、病室内で行われる簡単な質問
に答える日々が続いた。
 傷もかなり癒えたある日、私は内務省の者と名乗る複数の人物に目隠しされ
たうえで車に乗せられた。どれだけ走っただろうか? 車が止まり、私はどこ
かの建物内へと連れていかれた。周囲に大勢の人間の息遣いが感じられる。そ
して、私の目隠しは外された。

 私は思わず声をあげてしまった。目の前にあったのは先日まで戦っていた敵
戦闘機だった。エンジンカウルが黒く塗られている。我々が戦っていた敵機も
カウルは黒かった。まず間違いはない。
「何故こんなところに」
「驚いたかね? これは捕獲機だ」
 声のした方を向くと、大佐の階級章を付けた人物がいた。咄嗟に敬礼をした。
「いいから、楽にしたまえ。我々は君が体験した事実をありのままに話すこと
を求めている」
「この機体は対空砲火で被弾して波打ち際に不時着したものを運んできたの
だ」

 手を下ろし周囲をそれとなく見回すと、海軍のお偉方や技術者に交じり、い
ったい何者なのかわからぬ者も数名みとめられた。それと同時にここが格納庫
らしいこともわかった。私は自分の置かれた状況を思いおもわず身震いをした。
 それから暫くの時間、敵機についての様々な質問に私は答え続けた。そうす
るうちに、先ほど正体が不明だった者のうちもっとも年長者が須羽見という名
であり、東西の神秘学に通じていることがわかってきた。

 不思議なことに、軍や技術者からの質問はあまり無く、半ばからはもっぱら
須羽見氏の質問に答えることになっていった。氏の声はどこか遠くから聞こえ
るようなしゃがれた声で聞き取りにくく、私は氏の質問を聞き取るためにかな
りの労力を払わねばならなかった。あまり好感の持てる感じではないのは、須
羽見氏の全身を覆う風変わりな服のせいもあるとこの時私は内心思っていた。
 この間、様々な疑問が浮かび幾つかは尋ねたが、私からの質問にいっさい回
答はなかった。

「このマークは君が戦った相手部隊についていたものだね? 何かマークに異
変はあったかね?」
 須羽見氏に言われてマークを今一度見た。実はずっとそのマークが米軍機の
マークと微妙に異なることに疑問を感じていた。それは白い星は同じだがやや
捩れており、中心に小さな記号が描かれていた。
「操縦に集中していたので、おっしゃるような異変には気がつきませんでし
た」
 空戦中はそんなものまで見ているような余裕などはない。私は正直に答えた。
「いや、いい。ちょっと聞いてみただけだから」
 須羽見氏は私から視線を外すとそう答えた。なにか得体の知れぬ笑みが浮か
んだようにも見えた。
 これを最後に機体を前にした質問は終わった。

 続いて私は隣にある小部屋に連れていかれた。その隣にも部屋があり、頑丈
な鉄扉がその境にあった。
「向こうの部屋には捕虜がいる。例の機体のパイロットだよ」
 それを聞いてにわかに私の血は滾った。多くの戦友を屠った相手が今まさに
隣にいるのだ。私の顔色がさっと変わったのを見て、須羽見氏は落ち着いて同
席するようにと私に注意した。私も気を静め、それに同意した。
 部屋に入ると中にいた男がこっちを見た。大柄で茶色の髪をした男だ。私は
初めて自分が戦った相手を間近で見た。

 我々が着席すると直ちに捕虜の尋問が開始された。それから見聞きしたことが
今もなお私を苦しませる。生涯忘れえぬ数時間がこうして始まった。
尋問は形通りに氏名階級所属を尋ねることから始まった。尋問に当たってい
る担当者の、何としても吐かせようとする苛烈な意志が、私の身さえ固く緊張
させているのが感じられる。

 だが、全く不思議なことに当の捕虜からは、尋問に対する恐怖も緊張も微塵
も感じることができない。何とも奇妙な空気が狭い一室を静かに満たしていた。
「アーノルド・シュレイマー、階級は中尉だ。所属は言えんな」
 何度か尋ねられた後、突然捕虜の口からそう回答があった。当然、通訳が
日本語に翻訳した言葉だが。
「所属を言えんとはどういうことか! 答えんかっ!」
 担当者は既に興奮状態にあるとみえ、拳を握りしめながら発する声も当初に
比べて俄かに大きくなっていた。

「知らんから答えようがないと言っている」
「貴様っ、知らんわけがなかろう。 出鱈目はためにならんぞっ」
 シュレイマーが不敵ともとれる笑みを浮かべる一方、担当者は興奮の度合い
を増しているのは明らかだった。私はどうにも奇妙な感覚に襲われていた。何
故この男はここまで落ちついていられるのだろうか? という疑問が次第に膨
れ上がってきた。それともこれがアメリカ人の特徴なのだろうか? そう思
い始めた時、シュレイマーは話し始めた。
 
「実験部隊だな、敢えて言えばだが。正式名称は私も知らない。ただし、通称
は存在する。『蒼空の深淵』というのがそれだ」
 担当者が口を開こうとした時、それを静かな声で制したのは他でもない須羽
見氏だった。
 氏はシュレイマーに向き直ると彼にこうきりだした。

「君は何か話したいことがあるのではないかね? もしよければ聞かせてもら
えないだろうか?」
 シュレイマーは暫し須羽見氏の真意を計りかねているような顔をしたが、す
ぐに僅かに笑みを浮かべると話し始めた。
「部隊は選りすぐりの搭乗員で構成されている。だがどのような選抜が行われ
たのかは私にはわからないし、部隊の全容も私にはわからない。だが部隊が極
めて特殊な性格を帯びたものだとは言える。我々の部隊が完全なものとなった
暁には、もはや日本機が空を飛ぶことは一度たりとてなくなるのだからな。
我々は神の力を手にしたのだ!」
 
 シュレイマーの眼球は今やそれまでにない獣じみた輝きを周囲に放ち、それ
はその場にいた者達を威圧するに充分なものだった。だが、ちらと横を見ると、
須羽見氏だけは相変わらずの無表情のままで静かにシュレイマーを見つめてい
た。

 シュレイマーの話は続いた。
「我々には大いなる神の僕がついている。初めてその姿を目の当たりにした時、
私は恐怖に慄いた。いや全ての者がそうだったろう。だがそれが我々には危害
を加えないものだと知れば恐怖も和らぐ。我々はこの神の僕と共に戦う術をあ
る方から教授された。日々訓練に明け暮れたが流石に何もかも思うようにはな
らなかった。それでもある程度自信も深めて実戦に臨んだが、奇襲を受けて思
わぬ損害を出してしまった。だがそれから我々はさらに訓練に励み、戦果は
期待されたものに近づきつつある。貴様ら猿どもが空を飛べるのも今のうちだ
けだ。ふふふ、ははっひゃはあははっははっ!」

 シュレイマーの話はさらに延々と続き、部屋に満ちる圧倒的な狂気がそこに
いる者皆をじわりと押しつぶすかに思えた時、須羽見氏が口を開いた。
「一つ聞きたいが、君達に一連の手順を伝授し戦闘機に『旧神の印』を描くよ
うに指示した人物は背の高い若い黒人ではなかったかね?」
 それを聞いた途端、シュレイマーの眼に宿る狂気は突如として消え去り、明
らかな動揺が広がるのが私にもわかった。
「何故……それがわかる? 師を知っているのか?」
「さて、なんとなくそう思っただけだがね。うむ、確かに材質は大きな問題で
はないか……」
 須羽見氏は少し前私にそうしたように話をはぐらかした後、何かぶつぶつ呟
いていたが、やや俯く時に一瞬見せた微かな笑みを私は確かにみとめた。

 須羽見氏は立ちあがると、すぐに戻ると言い残して部屋を後にした。私はこ
の時、氏について部屋を後にしなかったことを今も深く後悔している。
 須羽見氏が退室した後の狭い室内は目に見えぬ重い空気に支配されていた。
誰もが無言の内に氏の戻るのを待っているようだった。圧迫感に押しつぶされ
そうになった時、ドアノブがカチャリと回された。

「少し休憩にしないかね? 飲み物を用意したよ」
 そう言いながら須羽見氏が入室してきた時は正直ほっとした気になった。た
だ一人シュレイマーだけは未だに緊張の只中にあったようだった。
 須羽見氏は机に近寄ると、ぎこちない手つきで黄金色をした飲み物をシュレ
イマーの前に静かに置いた。

「何も心配することはない。君にはこれが一番だろうと思ってね」
 シュレイマーは氏の顔と飲み物とを交互に見ていたが、やがて飲み物に手を
のばした。
 一口飲んだシュレイマーの顔に浮かんだ驚愕の色はまだはっきりと思い出せ
る。だがいったい何がそこまでシュレイマーを驚かせたのかは、私には、いや
須羽見氏以外には誰もわからないことなのだろう。只一つ言えるのは、氏には
この反応は予想通りのものだったはずという事だ。

「それと、君の持ち物を検査するために受け取りにいったんだよ」
 そう言うと氏は、手帳他の小物類とみすぼらしい小さな笛を机に置いた。
 シュレイマーはそっと笛を手に取ると、息を吸いこみ笛を吹き鳴らした。素
朴な石笛の音は壁に反響し、静かに消えていった。次の瞬間、シュレイマーの
目はつい先ほどまでの狂気をたたえ、突如奇怪な言葉を喚きちらし始めた。
「いあ! いあ! はすたあ! くふあやく ぶるぐとむ ぶぐとらぐるん 
ぶるぐとむ あい! あい! はすたあ!」

 通訳が訳せなかったのか、何事かシュレイマーに向かって早口で喋るわずか
な時間、ものの十秒とたたぬうちに、何者かに見られているような不気味な空
気に室内が覆い尽くされた。そして、なにか甲高い音が聞こえたその瞬間だっ
た。

「伏せろっ」
 須羽見氏が叫び、私は反射的に身を伏せた。その刹那、激しい衝撃が部屋を
襲った。轟音と悲鳴……思わず目を瞑った私だったが、目を開けた時見えたも
のは崩れた壁と脳漿を撒き散らして絶命している尋問担当者と通訳の姿だった。
 周囲一帯は騒然とした空気に包まれていた。須羽見氏の姿は既になく、私は
よろめきながら崩れた壁を乗り越えて外へ出た。
  
 外へ出ると、皆空を凝視して固まっていた。見上げた頭上五十メートルばか
りのところにそれはいた。
 あの日の空戦中に見た巨大な蝙蝠、或いは羽蟻のような異様な生物だった。
 その上には陶酔の笑みを浮かべるシュレイマーが乗っていた。その眼は闇
そのものと見紛うほど空ろでなんの輝きもなかった。

 「う、撃て。撃てーっ!」
 命令と同時にはっとしたように皆一斉に銃撃を開始した。だが一歩遅かった。
得体の知れぬ生物はその瞬間に尾部を発光させ、怪音とともに点になり見えな
くなってしまった。姿が消えた後も暫く『ヒューン』というような音だけが周
囲を漂っていた。

 私は須羽見氏の姿を見つけ近づこうとしたが、途中で倒れてしまった。全く
気がつかなかったが、私は頭部を壁の破片で強打していたのだった。倒れて意
識を失う間際に微かに氏の声が聞こえた。
「今ご覧いただいたものが、お話していた例のものです」
  
 次に私が目を覚ましたのは病室だった。あれから三日が過ぎていた。
 その後すぐに私は教官として指導に当たることとなり、そのまま昭和二十年
八月十五日を迎えた。
 戦後の混乱期に妻の実家で農業を始めた私は、かつての上官からの再三の誘
いも断り続け、二度と戦いの空へ戻ることはなかった。
 
 終戦までの二年あまりの間のことは復員してきた同期や教え子達にいろいろ
と聞かされた。だが、私の隊が体験したようなことをあの事件以来見聞きした
者は誰一人いなかった。
 昭和十八年には敵の新型機が登場し、零戦は無残な負け戦を続けたのだから、
実験部隊は正式な部隊に昇格することはなかったのかもしれない。だからとい
って、米軍が今も密かに研究を続けていることはないと誰が言えるだろうか。
 
 戦後の混乱も収まりかけた頃から、私はヨーロッパの神秘学について色々と
調べ始めた。やがて幾つかの書物についての噂を知るにつれて、その内容と私
の体験との一致に戦慄をおぼえざるをえなくなった。そして私はそれ以後、親
交のあった神秘家との文通もやめた。それは常人の住む領域を遥かに逸脱する
行為だと深く理解したからだった。
 あの蒼い空の遥かな深淵では今もなお人知を超えた真実が息を潜めているの
だ。

 私は頭上を飛ぶ米軍機を見上げ、あの微妙に捩れた星がないかと今も探して
いる。ただ一人部隊で生き残り、真実を知った者の哀しい性として。

 戦後十年ばかり経った頃、それまで探しても消息不明だった須羽見氏を知っ
ている人物と知り合うことができた。その人物の話では、氏らしい人物は終戦
まではある洋館に確かに住んでいたが、進駐軍が現れた頃に姿が見えなくなっ
たとのことだった。その後の洋館は今まで空家となっていることもわかった。
 既に神秘家との交友を絶って久しい私だったが、須羽見氏の住んでいたらし
い洋館を訪れてみたい気持ちを抑えることはできなかった。

 私はある日、教えてもらった湖畔にある洋館を訪ねた。かつては美しかった
であろう庭は草が生い茂り、館の窓は割れて、主なき日々の長さを無言でうった
えていた。
 玄関の鍵は掛かっていなかったので私は黴臭い邸内に足を踏み入れた。一階
には特にこれといったものも見当たらず、軋む階段を上り二階へと向かった。
 二階には一つだけ鍵のかかった部屋があった。しばし躊躇したがドアを破っ
て中に踏みこんだ。

 舞う埃と黴臭さにむせる私の目に正面の机の上にある物が映った。それはあ
の日、須羽見氏が着ていた服だった。それを手に取った時ぽろりと落ちた物を
見た私は、自分でも信じられないような声をあげながら館から飛び出していた。
 服の中にあった物、それはあまりにも精工に作られた須羽見氏の仮面だった。

 平穏な日々には人は永遠を感じる。だが、それが砂上の楼閣であることを知
る者は数少ない。できうるならば、二度と同じ事が繰り返されないように祈る。
 私はここのところずっと体調不良に悩まされている。医者も家族も大した事
はないというが、おそらく長くはないだろう。
 その時がくれば皆がこれを目にするだろう。見たならば、入れてあった封筒
へ切手を貼って速やかに投函して欲しい。
 
       安保闘争に揺れる日に記す。元帝国海軍中尉坂崎和雅

                                       図 書室へ戻る       
             (C)Kashiwagi 2005