仏教は平和を目指す教え

 本願寺派司教

内藤昭文

仏が歩み行かれるところは、国も町も村も、その教えに導かれないところはない。
そのため世の中は平和に治まり(中略)民衆は平穏に暮らし、武器をとって争うこともなくなる

『仏説無量寿経』

 

 

 

非戦時と言えども

オバマ大統領が被爆地広島を訪問して、「核兵器のない世界」を訴えるというニュースが話題になっています。

 大統領就任の2009年以後の核軍縮に向けた活動も、当初はノーベル平和賞受賞の評価があったものの、核兵器の拡散は止まったようには思えません。銃社会の米国では、核兵器だけではなく、銃ですら無くすことに苦悩しています。平和の実現は困難を極めているように思います。

 30年弱昔になりますが、佐藤三千雄先生に「人類は、戦争をしていない時に何をしていましたか」と聞かれたことがあります。答えに窮している私に、先生が「戦争をしていない時、人類は戦争の準備をしていたんですよ、違いますか」と言われました。戦争(争い)をしていないことが「平和」だと漠然と思っていた私にとっては衝撃的な言葉でした。逆説的に言えば争いのない日々であっても、それが平和な状態ではないということです。

平和の反対語

 「平和」と漢訳されるインドの言葉はシャーンティで、「安穏」「寂静(じゃくじょう)」とも漢訳されます。四法印一つ「涅槃寂静」は仏教徒の目標を意味し、その意味で仏教は平和を目指す教えであり、その行程が仏道を歩むことなのです。

 その歩みには、今を生きる自分自身や社会が不安や苦悩に満ちた、非平和的営みの真っ直中にあるという自覚が必要であり、その原因は何かという問いが不可欠です。

 戦後、常備車を廃止したコスタリカ国の元大統領夫人カレン・オルセンが「平和」に関して講演をし、「平和の反対語を教えて」という小学生に、「平和の反対語は戦争・飢餓・貧困・差別・無知・暴力・虐待など沢山ある」と答えています。つまり、人間の生きる営みすべてが平和の反対の内容だというのです。

 このような苦悩は、政治や経済を理由にするのかもしれませんが、その政治や経済の

担い手はすべて私たち人間なのです。仏陀の智慧は、苦悩の原因を人間の愚かさ(無知)

と、身勝手で自己中心的な心(我執)と説くのです。その智慧にもとづく慈悲は、苦悩

する人々をも倦(う)むことなく教導し続けているのです。この智慧と慈悲のはたらきを仰ぐ世界こそ平和があり、安穏な暮らしと慶びがあるのです。



 

本願寺新報 2016年6月20日号より



 


花嫁のれん

田坂亜紀子

ウェディングプランナー

 私は、ウェディングプランナーとして、仏前式を専門に結婚式のプロデュースをしています。

 仏前結婚式といっでも決まった形があるわけではありません。私かお手伝いをさせていただく時には、まず新郎新婦お二人の、人となりや結婚に対する思いなどをさまざまに聞かせてもらい、式次第や式場のお荘厳、衣装、ペーパーアイテム……等々、お二人ならではの結婚式を一緒に作っていきます。せっかくの仏前結婚式ですので、当日はもちろんのこと、準備の段階から仏さまのみ教えに触れていただければと思い、活動しています。

 私自身も関わる度に、お1組、お1組、違ったドラマの中でみ教えの尊さを教えていただいております。

 

花嫁のれんの風習

 ある時、ご依頼をくださっだのは、新郎が兵庫県出身、新婦が石川県出身のカップルでした。ご友人の紹介を通して知り合ったというお二人からは、お互いが相手のことを大事に思いやっであられることが伝わってきました。特に新郎の方は、嫁いでこられる新婦の思いを最大限尊重しながら結婚式を準備していきたい、と話してくださいました。

石川県と聞いてピンとくるものがありました。   花嫁のれん。北陸地方で幕末の頃より始まった婚礼の風習です。嫁入り道具の一つとして誂えられる花嫁のれん(花婿の場合は花婿のれんと言います)は、その多くが加賀友禅で鮮やかに染め抜かれた一点物で、花嫁の実家から嫁ぎ先の家に贈られ,
仏間の入り口にかけられます。婚礼当日、婚家に到着した花嫁がまず初めにすることが、花嫁のれんをくぐりお仏壇にお参りすることだったのです。つまり、仏前結婚式の伝統でもあるのです。

 驚くことに、この花嫁のれんは結婚式での役目を終えると、ほとんどの家ではそのまま箪笥にしまわれて、二度とかけられることがないのだそうです。のれんには花嫁の実家の家紋が入れられます。我が子の一生に一度の結婚式のために仕立てられる特別な代物です。そこには嫁ぐわが子への親の思いが込められており、それが花嫁の一生を支える宝物となるのです。

 花嫁のれんをくぐった花嫁たちは、仏間の敷居をまたぐその一歩に何を感じていたことでしょう。その一歩は、過去からその瞬間まで歩んできた道のりです。

 数えきれない一歩一歩に、目には見えない支えや願いが込められてあったことでしょう。またその一歩は、その瞬間から未来に踏み出す一歩です。どんな未来が待ち受けているかは誰にもわかりません。でも「どうか幸せになってね」と、のれんに込められた切なる願いが背中を押すのです。

 

石川県出身の新婦さんに花嫁のれんのことを聞いてみると、「もちろん知っています。憧れがありました」とのこと。それならぜひお二人の結婚式に用意しましようと決まりました。本来は一点物の花嫁のれんですが、石川県の衣装屋さんに問い合わせたところ、昨今はレンタルもできるとのことでした。

 結婚式の当日、新婦のふるさとから届いたそれは、新郎が生まれ育ったお寺の本堂の正面入り口にかけられました。打ち合わせの中で、結婚生活はたくさんの方々に支えられて夫婦二人で歩んでゆくものだからと話がまとまり、この度の結婚式では新郎新婦のご両人でくぐることになりました。

 朱色に染められた花嫁のれんは、本堂のお荘厳とも相まっでそれは美しく、結婚式の始まりを待ち受けます。

 

過去・現在・未来からの祝福

 雅楽の音色が響きわたり、厳かにその時は来ました。新郎、続いて新婦が花嫁のれんをくぐっだその時、すでに新婦の目からは涙が溢れていました。

 涙の訳は、お父さん。実は、お父さんは我が子の結婚式を迎える前にお亡くなりになっておられました。本当なら、結婚式に一番参列してもらいたかった人です。お父さんからかけてもらいたかった言葉があっただろうと思います。また、お父さんに伝えたかった言葉があっただろうと思います。

「おめでとう」
「ありがとう」
 交わされることのなかった言葉を思えばとても寂しく悲しいですが、出会うご縁も別れるご縁も、この瞬間に連なっていたと味わう一歩です。
 その姿に参列者全員が感動と祝福のまなざしを向ける中、最も目頭を熱くしておられたのはこれまでたいへんなご苦労を重ねながら我が子を育ててこられた新婦のお母さんです。途方もない親心に支えられて踏み出す一歩に、新婦はどれだけの重みを感じておられたことでしょうか。

 そしてその場を根底から支えるのが、過去・現在・未来を貫き、伝えたかった言葉や思いさえも丸抱えにして「必ず救う」とおはたらきくださる阿弥陀さま。その尊前に、お揃いのお念珠をかけてもらい、「南無阿弥陀仏」とお念仏申すお二人の尊い後ろ姿がありました。

 これが仏前結婚式です。結婚式に限らず、仏さまのみ教えのもとで儀礼を行うことは、いま歩む人生にどれだけかけがえのないものが注がれていたかを知らされることでもあると思います。人生の節目節目は、仏前でお迎えしてみませんか?

 

本願寺出版社 お彼岸 春   より



2006.6.1 更新
2007.1.5 更新
2008.1.6 更新
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2011.10.28 更新
2012.12.30 更新
2013.11.4 更新

2015・1・10  更新



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