香積寺 寺報 231 2020年11月1日 |
香積寺報恩講
感染症予防のため、本年度は寺族のみで営みます。門信徒の皆様におかれましては、各ご家庭でのお勤めを、お願いいたします。
報恩講
普賢保之
仏教では祖師のご命日を縁として、その遺徳を偲ぶ法要が多く営まれています。法然聖人が往生された一月二十五日にも、その遺徳を偲び、門弟たちによって知恩講が営まれるようになりました。
親鸞聖人が往生されたのは、旧暦では十一月二十八日、新暦では一月十六日になりますが、そのご命日までの七日間に、浄土真宗の各派では報恩講が営まれています。本願寺派では、新暦によって一月九日午後から十六日までの七昼夜勤められます。
本願寺で「報恩講」という名称が使用されるようになったのは、第三代覚如上人の時代からです。永仁二年(二二九四)、覚如上人は二十五歳の時、親鸞聖人の三十三回忌法要にあたって、『報恩講私記(式)』を著されています。『報恩講私記(式)』は、聖人のご遺徳を讃えた聖教です。
これ以降、聖人の御正忌法要を報恩講と呼ぶようになりました。
覚如上人は翌年にも『親鸞伝絵』を著して、聖人のご遺徳を讃仰されています。『親鸞伝絵』は、生涯の業蹟を記述した詞書と、それを描いた図絵からなる絵巻物です。しかし、時間の経過とともに図絵と詞書が別々に流布するようになりました。江戸時代に入ると、報恩講の際に図絵は掛け軸として本堂の余間に掛けられるようになりました。また詞書の方は『御伝紗』と呼ばれるようになり、報恩講の際に拝読されるようになりました。
また本願寺中興の祖と称される第八代蓮如上人は、たくさんのお手紙を認められています。そのお手紙を本願寺派では『御文章』と呼び、親しまれています。『御文章』の中にも、「報恩講」という言葉がたびたび出てきます。「大坂建立章」(四帖目十五通)には、次のような内容が記されています。
私は当年で八十四歳になります。しかし、この夏頃から病気を患って回復の見込みもたちません。自分の存命中に皆さんに、信心をいただいて欲しいと朝夕思っています。信心を獲得してくだされば、私か大坂に居住した甲斐もあったと思われます。必ずこの七日間の「報恩講」中に信心をいただいてください。ともに浄土往生という目的を達成しなければなりません。
蓮如上人も有縁の人たちに、「報恩講」を縁として、信心を獲得してほしいと強く思われている様子がうかがわれます。
私か生まれ育った地域では本山より1ヵ月早く御正忌報恩講が勤められていました。そのため「お取り越し」と呼んでいました。小学生の頃、私はこの行事をとても楽しみにしていました。
この時期に合わせて、高校の体育館で絵画や習字の発表会があります。金賞・銀賞・銅賞に入選すると、作品の右上に金・銀・銅(赤色)の紙が貼られるのです。毎年、どきどきしながら体育館に入っていったのを覚えています。その発表会を見てから、参道に並んだ出店で買い物をするのが楽しみでした。また的当てゲームや、金魚すくいなどもありました。子どもだった私にとって、楽しみな年中行事でした。
最近は簡略化されてきましたが、ご門徒さん宅の報恩講も盛んに行われていました。家族だけでなく親類の方も招いて、一緒に「正信偈」のお勤めをします。本山の音程が基本になっていますが、地域独特の節回 最近は仏事が縮小される傾向にあります。人口が都市部に集中し、地方は一層過疎化が進んでいることもその一因となっているのでしょう。また生活環境の変化もその一因かもしれません。しかし、私たちにとっ
学校で学生たちを見ていると、一層その思いを強くします。悩み苦しんでいる学生がたくさんいます。順風満帆に生きてきて青春を謳歌している学生もいますが、いじめや不登校を経験した学生も少なからずいます。中には親や周囲との軋轢に悩み体調を崩す学生もいます。このように生きづらさを感じている若者は意外と多いのです。自己肯定感を持てず苦しんでいる学生もたくさんいます。そうした学生の中には、親鸞聖人のお言葉に触れると、目を輝かせる者も少なくおりません。
私も若い頃、悩みを抱える中で、現状の自分を受け入れることができたのは、聖人の、
無慚無愧のこの身にて まことのこころはなけれども
弥陀の回向の御名なれば功徳は十方にみちたまふ
(『正像末和讃』『註釈版聖典』617頁)
というお言葉に触れた時でした。この和讃の前二句は阿弥陀仏によって照らし出された私のありのままの姿です。ありのままの姿に気づかされただけでほっとできたのです。それは南無阿弥陀仏のはたらきのおかげだったのです。
いつの時代も仏法に出遇う場が、老若男女を問わず必要だと思います。
報恩講とは、まさしくそのような場なのではないでしょうか。
執筆者
京都女子大教授 本願寺派勧学
彦根市行願寺住職
本願寺出版社 報恩講 より
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