井原市史(抜粋)

3.鳥羽踊り

 県主地区で踊られる盆踊りに「鳥羽踊り」がある。踊られるのは盆月、なかでも13日から16日の間が多い。
 鳥羽踊りといわれるようになったのは、昭和30年(1955)9月29日、鳥羽踊り保存会が結成されてからである。
 もともと県主地方に伝えられていた盆踊りで、地踊りには「松山踊り」 「梅返踊り」 「大黒踊り」 「一つ拍子」 「二つ拍子」 「三つ拍子」 「大和踊り」などの種類があり、歌は音頭取りが歌う「石童丸」 「鈴木主水」 「阿波の鳴戸」 「小栗判官」「乃木将軍」などの口説きであった。
保存会の結成を機に、それまで踊られていた踊りを1つにまとめ、歌も「鳥羽踊り音頭」として作曲した。作詞者は当時の県主小学校の笠原武雄校長である。
 以前の盆踊りは、高梁市などで踊られている松山踊りが中心で、扇子を持って踊る。近くの地区からも「県主へ松山踊りに行った」と言われるほどだ。「大黒踊り」 「一つ拍子」 「二つ拍子」 「三つ拍子」は、何も持たない手踊りである。「大和踊り」は、手拭いを、「梅返踊り」は、扇子を持って踊る。
 鳥羽踊りとしてまとめられた踊りでは、入場して輪になるまでが、以前の「梅返踊り」を踊る。足が速く、前進のみの踊りである。退場するときは「大和踊り」で退場する。輪になって踊るのは、この二つを除く「松山踊り」などを組み合わせたものである。
音頭取りは会場中心の台場(一畳台)の上に番傘をさして音頭を取った。太鼓叩きも台場の上で鋲打ちの和太鼓を一人で叩く。
 踊り手の服装は昔浴衣に草履という特別変ったものではなかったが、昭和初期に「県主愛踊会」ができて浴衣、鉢巻き、白足袋、麻裏草履、扇子、手拭いとほぼ決まったものとなった。
現在は、高さ3メートルで2メートル平方の櫓を組み、その上で音頭を取り、太鼓を叩く。服装は保存会の者はブルーの五つ紋の着物、角帯、白足袋、黒緒の麻裏草履、編笠で、日の丸の扇子、ピンク色の手拭いを持つ。
 戦前の盆踊りは、金剛福寺の境内で踊るとともに、地主の家の門で踊った。地主は酒樽を据え、柄杓で茶碗に酒を注いで振る舞った。
 昭和の初期になると、各地域で踊りの大会が開かれるようになり、県主地区でも「県主愛踊会」を結成、浴衣のような衣装を作り、鉢巻き、白足袋、黒緒の麻裏草履、扇子、手拭いを持って大会に出場した。岡山県の踊り競演会にも地域を代表して参加、必ず1〜3等に入賞するほど上手であった。このときは「松山踊り」を踊ったという。
日中戦争が始まり、踊りどころではなくなり昭和13年から踊り大会は中止になり、地域での盆踊りも止めた。
 戦後、昭和27・28年ごろから広島県で踊りの大会が開かれ、戦前の踊りを復活しょうと有志が相談し大会に参加した。三原市、尾道市、新市町などの大会に参加、そこでも入賞していた。そして昭和30年の「鳥羽踊り保存会」の結成になる。その後、踊り大会もなくなり、次第に後継者も少なくなっていった。しかし、往時の伝統は生きていて、昭和57年には「全国青年大会」に参加し郷土芸能の部で優秀賞を得ている。
 昭和63年、「瀬戸大橋開通記念博覧会」に20人の踊り子で出演したのを契機に保存会を再編し、今日では盆の期間中又はそれに近い土曜日に県主小学校で踊っている。その前夜には、金剛福寺の近くの鳥羽院御陵で踊る。

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