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ゆかりの人々

| 菅原道真 | 藤井皓玄能登守 | 内山完造 |
  菅原道真 (すがわらのみちざね) 
845年(承和12年)生まれ。わずか5歳で和歌を詠み、10歳を過ぎて漢詩を創作し、神童と称されました。33歳で式部少輔、文章博士となり、学者としては最高の栄進を続けました。特に宇多天皇からは厚い信任を受け、蔵人頭などの政治の中心で活躍しました。50歳の時には、唐の国情不安と文化の衰退を理由に遣唐使停止を建議し、中国に渡ることはありませんでした。そして、55歳で右大臣、901年(延喜元年)1月7日には、藤原時平とともに従二位に叙せられましたが、その直後、急転して大宰府左遷となりました。
 大宰府では、左遷というより配流に近い窮迫の日々を送りながらも、天を怨まず国家の安泰と天皇の平安を祈り続け、903年(延喜3年)2月25日、亡くなりました。
 その後、朝廷でも菅原道真に罪なきことが判明し、学問の神様(天神社)として現代に至るまで永く人々の信仰を集めています。
  藤井皓玄能登守 (ふじい こうげん) 
 天文年間(1532〜55)、備後 神辺城主 山名理興の二番家老を勤め、備中 正霊山城主として高屋城主も兼ねた戦国武将。
 藤井一族は1470年頃(文明年間)、現在の芳井町川相にあった中山城主 河合重行を頼り成福寺の周辺(西吉井の地)に居住しました。その後次第に勢力を得て正霊山城を築きました。
 1569年(永禄12年)藤井皓玄能登守は神辺城を攻め陥しますが、間もなく毛利軍勢に攻められ、浅口郡西大島にて自刃します。その際、藤井皓玄能登守の本拠地である西吉井の地(成福寺周辺)には、毛利軍が乱入し、藤井一族が悉く殺戮されたであろうと言われています。
 隠棲生活を余儀なくされていた藤井一族は江戸時代に入り、皓玄の孫娘 於登久が備後福山城主 水野勝成に嫁ぎ福山2代目藩主 水野勝俊の母となってから息を吹き返します。
 福山周辺には現在も藤井皓玄能登守ゆかりの一族が多くいらっしゃいます。
 
藤井皓玄能登守についての詳細は、前福山市長(弁護士・歴史研究家)立石定夫氏の労作 「神辺城と 藤井皓玄」(内外印刷 平成2年8月1日出版)をご覧ください。
  内山完造 (うちやま かんぞう) 
 日中友好のために生涯を捧げた偉大な先駆者として有名な内山完造は、1885年(明治18年)1月11日 後月郡吉井村(現芳井町大字吉井)で生まれ、若くして上海に渡ります。その後34年間、激動アジアの波瀾万丈の嵐の中、日中関係の最も険悪・困難な時期に中国を熱愛し、中国のよき理解者として身命をなげうって尽くしました。  
 
 上海の内山書店は排日・日貨ボイコット運動のさなかにありながら発展成長し、中国の知識人・青年・学生たちが世界を知るための重要な窓口となり、中国を広く世に伝える役割もし、日中文化交流を積極的にくり広げました。
 内山完造は「中国近代文学の父」と呼ばれた魯迅の良き理解者であり、魯迅が政府から追われる身となった際には、魯迅とその家族を命懸けで救援しています。体調を崩していた魯迅に日本での療養を勧めましたが、魯迅はそれを断わり病状が次第に悪化、1936年(昭和11年)10月19日魯迅は亡くなりました。完造はその葬儀に当たって葬儀委員長を務め追悼演説も行っています。
 第2次世界大戦終了後は、日中友好・国交回復実現のために心血を注ぎました。1949年(昭和24年)には、日中貿易促進会代表委員に選出され、1950年(昭和25年)には、日中友好協会初代理事長に就任しました。
 1959年(昭和34年)9月19日、中国の招きで病気療養のため北京に着き、その夜、脳溢血で倒れます。完造は遂に国交回復の日を待つことなく、翌20日、74歳の生涯を閉じます。

 内山完造没後13年の後、1972年(昭和47年)9月29日、日中共同声明が調印されました。日中国交正常化を歓迎する北京人民大会堂での祝宴の場で、周恩来首相は、「水を飲む時、その井戸を掘った人を忘れてはいけない」という中国の古いことわざを引用し、国交が正常化する前の厳しい時代に日中友好に尽くした人たちの努力を賞賛しました。
 
 
内山完造についての詳細は、
1)  内山完造顕彰会発行 「日中友好の架け橋 内山完造の生涯」
2)  内山完造のページhttp://homepage2.nifty.com/ibara-kaere/uchiyama-kanzou-mokuji.html等をご覧ください。 
 
尚、成福寺と内山完造については、こちらをご覧下さい。
   
又、2004年8月の日中友好訪中団の報告は、こちらをご覧ください。

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