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当寺と内山完造


上海 内山完造先生の 墓参り と 日中友好訪中団 (2004年8月28日〜9月1日)の報告はこちらをご覧ください


内山完造の声
『成福寺での講演』昭和34年5月
(MP3ファイル 約1MB)
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住職と陳祖恩先生
成福寺客殿で談話する陳祖恩先生
高綱博文教授と陳祖恩先生
芳井町民会館ロビーに設置された
内山完造先生の銅像の前で
(高綱博文教授と陳祖恩先生)
日中友好の架け橋 内山完造先生の菩提寺
 
 日中友好協会初代理事長 内山完造先生は、成福寺檀徒の家庭に生まれ、日中友好のために生涯を捧げられた偉大な先駆者です。
 詳しくは内山完造顕彰会が作成した「内山完造の生涯」をご覧いただければよく解ると思いますが、戦後上海から帰国された後郷里に帰られる度に成福寺にも良くお越しになり、先代住職とも深い親交がありました。
 私は昭和29年生まれのため残念ながら記憶にありませんが、きっと赤ん坊の私を抱いてくださったことと思います。
本堂に祀られた内山完造のお位牌 昭和34年9月20日に北京で逝去された訃報を聞いた先代住職は、「これだけ立派な人をお祀りしないわけにはいかない」と、早速自分で位牌を作り本堂に写真とともにお祀りしました。内山先生はキリスト教者でしたが、宗教の枠を超えてお祀りをした先代住職の慧眼には今も敬意を表しています。

 また最近では、日本大学教授 高綱博文先生を始め、中国上海社会科学院歴史研究所 陳祖恩先生等、内山完造の本格的な研究者も芳井の地を訪ねてくださるようになりました。
 
更には、2001年12月19日に中国中央電視台(CCTV)がドキュメンタリー番組「人物」で内山完造を特集し中国全土に放映いたしました。この番組は入念な日本ロケもされ、私もインタビューを受け、成福寺境内や内山完造先生の位牌も収録・放映されました。

 成福寺と内山先生との関係で特筆すべきは、内山先生が成福寺において1時間30分にわたって講演をされた時の録音テープが完全な音声で残っていることです。先代住職が録音したものですが、昭和30年代に日中国交回復を叫ぶ内山完造の情熱が目の当りに伝わってくる貴重な講演テープです。このホームページにおいても出来るだけ公開したいと考えています。 
 
 
 
日中国交回復を叫ぶ戦後の内山完造
日中友好に尽力する完造先生
東京新橋駅前 蔵前工業クラブで開催された
「日中友好文化会議」で司会をする完造
1952年(昭和27年)9月13日
(内山 籬氏提供)
郭沫若氏と完造先生
来日した郭沫若を案内する完造
1955年(昭和30年)12月
(内山 裕氏提供)
 1947年(昭和22年、62歳)、内山完造先生は、中国国民党政府によって上海から日本へ強制送還されます。
 
 1948年(昭和23年、63歳)からは、中国と中国人の真の姿を理解してもらおうと日本全国、北から南まで800回を超える「中国漫談」の講演をして廻り、日本と新中国の友好関係の一日も早い実現を大衆に訴え続けました。完造先生は、上海時代より著書も多く、魯迅が序文を書いた『生ける支那の姿』を始めとして、『上海漫談』『上海夜話』『中国四十年』『そんへぇ・おおへぇ』などを著し、中国の紹介に精力的に努められました。
 
 1949年(昭和24年、64歳)、日中貿易促進会の代表委員に選出され、1950年(昭和25年、65歳)には日中友好協会の初代理事長に就任します。日中友好と魯迅精神の伝達、平和運動などに全勢力を投入し、また中国残留日本人の帰国交渉のため北京へ赴くなど、多大な貢献をされました。
 
 「成福寺での講演テープ」から(抜粋) 1959年(昭和34年)5月
講演の様子 井原小学校で講演する完造
1959年(昭和34年)
(内山裕氏提供)
   
「……中国のことを一番よく知っているのは世界中で日本人でなければならないんだと。ところが、そのことを一番知らんのが、日本人だ。なぜ一番良く知っておらなきゃならんかと言うと、文字が同じ文字を使っている。
……昔はちっとは知っとった訳なんですけれども、日清戦争という戦争があってから後、どうも日本人は戦争に勝ったということから少しばかり考え違いをした。……」
 
 日中貿易促進会設立の経緯
 「戦争は長いことしたけれども、終戦になった。けれども、日本と中国の間にはまだ講和条約が結ばれていない。で、こいつを一日も早く話し合いの出来るように道を作らなきゃいかんと。ひとつ国民と国民の間でやろうと言うので、今からちょうど10年前、私どもは中国側に、国民と国民の間で仲良くしようじゃないかということを呼びかけた。そうして、ひとつ貿易から始めようじゃないかと……」
 
 日中国交回復と平和
 「本当に平和を希望しておるなら日本はどうしたら良いか、ということになりますと、実は中国と日本の戦争は、1937年から戦争が行われて8年続いて、そして、日本が負けて終戦になりました。終戦から14年、しかも、まだ中国とは講和条約が結ばれていない。中国と日本は戦争状態。これを一番に先ず、日本は片付けなきゃいけない。今度の戦争の一番始まりは中国との戦争です。8年間続いて、あれだけ大きな中国の国土の上で大きな戦争をしておきながら、それがそのまま放ってある。これを一番先に解決せにゃいけない。こいつを片付けることによって、東洋が初めて平和になる。どうしても一日も早く、中国と日本との間の講和条約というものを結ぶようにせにゃいけない……」
 
 
 
 帰らぬ旅 1959年(昭和34年)9月19日
 完造先生は、1959年(昭和34年)9月19日、中国の招きで病気療養のため北京に着き、その夜、脳溢血で倒れます。そして、完造先生はついに日中国交回復の日を待つことなく、翌20日、74歳の生涯を閉じられました。
 
 遺骨は、生前の意志をくまれて上海の外人墓地(万国公墓)に、妻みきと共に眠られています。
旅立つ完造先生
中国に渡る完造を見送った時の写真(羽田空港)
1959年(昭和34年)9月16日
(内山裕氏提供)

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