お気に入りのHP U

この題目も2回目です。
歳を取ると昔の思い出の方が鮮明になってきますが
管理人も、そろそろその年齢に近づきつつあります。


以前のブログの中で、地元の今昔写真を紹介いたしました。
それとは別に、昔の航空写真が無料で見られるページがあると聞いて
ちょっと検索してみました。『国土地理院』さんのページになります!!
管理人が小学校のころの地元とか、就職したころの会社周辺なども
思ったより鮮明な写真で見ることができました。
もちろん最近の写真を含めて、時期を追って確認できます。

では管理人の地元より。

現在の井原大橋が無いのは当然ですが、日芳橋上手に自動車教習所のようなものが
確認できますし、笠岡行の山王バイパスもありません。
市民球場もため池を埋め立てて造られました。
井笠鉄道も、矢掛・笠岡線と神辺線の2本が確認できます。
簡単に言うと、ほとんど田んぼですね。


そして勤務先の周辺です。

現在の商業施設の多くは、工場や学校でした。
日本化薬様はポートプラザに。
広島大学福山分校はローズアリーナ他に変身。
早川ゴム様の一部がリーデンローズです。
殿方の殿堂「月世界」も無くなり、入江も埋め立てられて『大学』となりました。


では本題の歴史写真です。高度成長時代の瀬戸内海の移り変わりです。
笠岡沖から福山までの埋め立ての歴史です。

まず戦後間もない1948年です。見事な内海です。
曙町から新涯・箕島までは、すでに埋め立てが終了しています。




そして1964年(昭和39年)、東京オリンピックの年です。
当時の日本鋼管、現在のJFEや、笠岡の番町が埋め立てをj開始しました。




更に更に1974年(昭和49年)、JFEの第2期工事と共に変化が加速します。
箕沖の拡張、JFE1期工事の南への拡張、そして笠岡沖に
高島を超えて神島まで堤防が築かれました。




3年後の1977年(昭和52年)、ほとんど現在の地形まで埋め立てられました。
笠岡湾干拓地は当時は夢見る島で、新鮮な農産物を飛行機で運ぶ予定でした。
管理人の地元からも牧場がこの地に移転しています(牧場跡地は洋服の青山様の配送センターに)。
JFE笠岡工場もすべて工場施設で埋まるはずだったのに・・・・。




そして最後だけはGoogleで。2015年版です。
1977年以降は、地形としての大きな変化はなくなりました。
逆に言うと『昭和』の変わり様が凄まじかったとも言えます。

発展の歴史でもあり。自然破壊の記録でもあります。
最近の若い方は、高島・神島という地名さえも違和感を覚えるのかも??


自然災害が起こると、良く言われる警告に「昔の地名」があります。
地名にはその土地のいわれが隠されています。
でもそれを言うと福山市は海岸線を示す「津」より沖は、元海がばれちゃいます。
津之郷とか奈良津が、限界になってしまうかも・・・・