重玄寺跡(雪舟の墓)

現在の「大月山 重玄寺」は芳井町吉井にありますが
元々は嘉吉元年:1441年に天神山に創建されました。


まずは道のりですが、現在の重玄寺前を天神山池方面に登ります。
下の地図で矢印方向から登って来ることになります。



ここで注意です。管理人も訪問の目的は「重玄寺跡ではなく雪舟の墓」でした。
上の地図にも「重玄寺跡」と注釈を入れましたが、実際は「雪舟の墓」になります。
道案内も「重玄寺跡」までの距離で表示してありますので
「雪舟の墓」を訪れたい方は、この看板に200m加えてお考え下さい。

では今回は詳しくご紹介しましょう。天神山池を過ぎて「A地点」の三叉路です。
右手の「和田」方向に右折してください。



道なりに行けば「B地点」に着きます。
目印はヘアピンカーブに立っている2本のカーブミラーです。
この中間部分に右折出来る細い道がありますが、車両進入可能です。



看板は「重玄寺跡まで300m (雪舟の墓までは500m以上)」とあります。



道は荒れ気味ですが、余程の高級車でなければ大丈夫。
ほどなく「C地点」に到着。ここも間違える危険はなさそうです。



看板は「重玄寺跡まで100m (雪舟の墓までは300m以上)」とあり
ここから歩こうかなと思ったのですが、『雪舟の墓に行く方は車一択で』



まだかな、まだかな?と思っていると、やっと雪舟の墓所に到着。
看板にある「重玄寺跡」は、入口が発見できませんでした。
イメージは先に駐車場があり、その奥に目的地があるパターンが多いのですが
ここは雪舟の墓を通り過ぎた奥側に、立派な駐車場がありました。





途中は不安になりますが、ちゃんと方向転換できる駐車場がありますので
余程の大型車でなければ、遠慮なく車両で進入してください。


駐車場の脇に「近衛通隆墓参」という石碑がありました。
これは重玄寺の創建が足利将軍家の請願によって公方祈願所として建立されたのですが
開祖の千畝周竹和尚は五摂家の筆頭・近衛家の生まれで、天皇家とゆかりがあるということです。



ちなみに「近衛通隆」とは(Wikipediaより)
1922年〜2012年、歴史学者。後陽成天皇の男系13世子孫。


では雪舟さんの墓参りです。大きな石碑に「雪舟終焉」とありますが『所説あります』。





全景です。昔は広大な伽藍だった記録も残っていますが
現在訪問できるのは「墓所」だけのようです。



この中央当たりに「雪舟さんの墓」があります。
余りに立派だと、後世の人が作り上げた感じになるのですが
他の住職の墓と比べても決して大きくはありませんので、かえって信憑性があります。
下の写真の中央やや左側。





お寺の関係者と思しき方々は。



蝉の声とスズメバチの羽音しか聞こえない静寂の地でした。


焼失前の伽藍鳥観図が、井原市観光協会や重玄寺様のホームページで
見ることができますので、ぜひご覧ください。巨大ですよ。