淀平井堰


我々世代は「大溝」と呼んでいましたが、正式名称は『淀平井堰』と言います。
文献より少し詳しく紹介しますと
淀平井堰は、現在の昭和橋のあたりより取水される用水である。
井原市井原町を縦断した後、七日市・出部・笹賀町でも用水として利用された

取水された水は、井森神社や丸田妙見の横を流れ、
幾筋かに分岐しながら井原町の田畑だけでなく、七日市や出部ヘ流れ込んだ。
現在、井原町では市街地化が進んだため水路の多くが暗渠となり、上部は歩道として整備された。
また、水路の一部は、現在の井原小学校運動場を横断して流れている。


なお当然ではありますが、このページに書かれている内容は
すべて管理人個人の「勝手な推論」ですので
真偽のほどを保証するものでは無く、いかなる損害にも対応いたしません。


推理の基礎資料は昭和22年の航空写真です。
この中から「水路」と思われる痕跡に、線を入れていきましょう。

左上の角が現在の井原小学校。中央はトマト銀行様辺り。
下辺真ん中がバッティングセンターぐらいです。



上の線だけを縮尺を同じにした現在の写真に貼り付けます。

現在の市役所より南側は、水路と道路が良く一致しました。
都市計画の中で道を作りやすいというか土地買収もやり易かったのかな?

では取水口です。昔の堰はもう少し下流でしたね。




用水の入り口です。昭和橋南詰めになります。




本町あたり。小学生の通学路になっています。




井原小学校では教育資料として(?)少しだけ水流が。




では『A地点』です。移転した市立高校の横になります。


ここから先は、どんどん細分化していきますが
住宅密集地にもなりますので、十分に確認できない場所もあります、ご了承ください。

では黄色の矢印側、『H方面』へ。

(株)タカヤ様のお向かいで
少し当時の面影が。




旧大西歯科様の横から裏。
コンクリート蓋の下ですね。




郷社(足次山神社)の西北側。
民家の間に再び顔を出します。

その後は小田川に戻ります。

「A」に戻って赤い矢印側を進みましょう。『B地点』はハローズ様と常楽寺の間になります。


ここでまたまた分岐です。先に黄色の矢印方向『I水路』を追います。
コインランドリー井原様の横、押しボタン式横断歩道を通って・・・・

市役所職員の駐車場の真ん中を通って
田中公園で左折。

割と面影が残っていますね。

途中の暗渠(あんきょ)は確認できませんが
中華料理・四季紅様前辺りから東向きに。



見過ごせば、ただの路地ですが
こういったコンクリート蓋は水路の遺物です。

向こう側は駅前通りです。


ローソン井原中央店様の横側です。
しっかりと水路が確認できます。

実はローソン様の敷地を囲むように
水路は曲がります。

ローソン様の裏で曲がり、国道486号を越えて
ハート様から商工会議所横を通過。

ハート様の屋上スロープの秘密・・・

アクティブライフ井原から
炉端焼き・だんけ様横辺りで姿を見れます。

このまま井原駅方面へと続きます。

では「B」に戻ります。赤の矢印「J方向」へ。
ハローズ様の駐車場でも水路は確認できますが
そのまま田中美術館方面へと延びていきます。



冨久味庵様を右折して市役所西会議室前から
国道313号を渡ります。
ここ案外、盲点でした。




大昌チャンスセンター様裏あたりです。
右からの水路(赤)が淀平井堰の本流。正面からの水路(黄)は
井原高校南校地裏山からの水流で、『合流地:C』です。




NTT様からファンタジスタ様横に水路は伸びます。



そしてここが最大の注目ポイント!!
井原自動車様敷地内にある『分岐:D』。

ここを右手の黄色に進むと『芦田川』に
同じく正面の赤色に進むと『小田川』に

究極の選択とはこのことかも???




まずは赤色の矢印方向です。
井笠鉄道・神辺線の線路跡を通り過ぎます。



日本生命井原支店様方面に左折し
井原バッティングセンター様横で今度は右折。



馬かろう様横付近では
豊かな水量を見ることができます。


そのまま南進して
「分水嶺」で紹介した踏切下へと。



では最後の『L方向』です。
暗渠の特徴:コンクリートは残っています。



あまり水路の顔は出さないのですが
出部小学校東側では、今も農業用水として。



そして今回の調査は、ここを終点としましょう。
キッチン喜多川様裏に、こんな石碑があります。

「こいの川」とは?
この左手に水源があり、その昔はここを源泉として
出部・高屋の農業を支える『命の泉』だったとか。

全景です。

右上からの流れは「運動公園」方向から。
中央には、今も「こいの川」水源跡が水を貯え
左下には、今回の目的「淀平井堰 他」の水が
合流します。

管理人の自宅近くにも、今回調査していない水路跡が
数多く残っています。また「暗渠」と思われるコンクリート部も
いたる所にあります。まだまだ先は長そうです。