堂々川砂溜群

以下、Wikipedia様より

江戸時代後期、当地を治める備後福山藩により建設され、
その後増改築および修復を重ね現在でも砂防ダムとして機能している。
2006年国の登録有形文化財に登録。 流域は県により整備されている。
地元住民による任意団体「堂々川ホタル同好会」により周辺美化が行われている。
なお、2006年に文化財登録されたのは8基のみであるが、江戸時代に造られた砂留は堂々川流域だけでも16基、
周辺を含めると40基以上造られ、そのほとんどが現存している。
また、明治時代に造られた流域周辺のジオラマが現存している。
幕末から明治にかけ殖産興業を目的に欧米技術の輸入が始まり、お雇い外国人が雇用され
日本各地に石積みの砂防ダム・防波堤が建設されているが、堂々川周辺の砂留はそれらと違い、
日本の城郭建築から発展した石垣積技術を用いた日本独自の砂防ダムであり、
明治以降の近代技術で増改築を行った和洋折衷の砂防ダムともいえる。
江戸時代に造られた砂防ダムのうち、6番砂留規模の砂防ダムは現存しておらず、
日本土木史にとって重要な遺構である。「大砂留」と呼ばれ地元住民に親しまれ、
上流側は「堂々公園」として整備されている。


とりあえず、日本最古級の、価値ある建造物です。


まずは公園の案内看板を。


数字的には下流から振り分けられていますが
水の流れとしても、紹介の都合上も
上流からの写真と致します。

最上流部には公園が整備されています。
蛍の名所としても有名です。


そしてこの堰だけは、一番上を水が流れます。


でも下から見ると、この「六番」こそが日本最大級の「大砂留」です。
天保6年(1835)施工開始と言われています。


続いては「五番」。高さは上に写っている人間と比較願います。

ここより下流の「堰」は、本来の砂防の役目を彷彿とさせて
石垣の間から水が流れ出します。


さらに「四番」


「三番」 ここは上面を歩くことが可能です。


「二番」 実際に散策すると、ちゃんとモニュメントがあります。


そして一番下流の「一番」です。
本来の遺跡としては、写真後ろ側の石積みらしいです。

「二番」も「一番」も、石積みの間から清流が流れ出しています。

そしてその後は、利水用に水路らしきものを確認できます。




更に更に。その脇には別の遺跡もしっかりと現存しています。


これは下から見たほうが、迫力と感動があります。
これを油圧機械の無い時代に、手作りで・・・・・・・


一番上も、有り得ない建造美です。



以下もWikipedia様より。
江戸時代、森林の乱伐採によりはげ山が増え、日本各地で土砂災害が発生する。
これに対応するため、1666年(寛文6年)江戸幕府は諸国山川掟を布達した。
幕府は土砂流出対策として、長期的な普請として"はげ山"を治山する「植栽工法」と、
短期的・応急処置的な普請として土留を建設する「砂留工法」を推奨した。

ざっと350年前のお話ですが、大したものです。