私の住んでる備中国の豪族・三村氏の最後の当主です。
         


1、家親死去
1546年、成羽城主・三村家親の次男として生まれる。
家親は毛利氏に従い勢力を広げ、備中の半国を領していた。

1560年代には居城を備中松山城に移して、備中の大半を支配するに至ったが、1566年に
当主・家親は、備前の宇喜多直家の放った刺客に暗殺されてしまう。


2、明禅寺城攻防戦

家親のあとを継いだ三村元親は、宇喜多勢に対する守りを固めるべく、備中の諸城に
兵を配備し、さらに備前の金光氏、須々木氏、中島氏らを味方につけ、対抗姿勢を強めた。
一方の宇喜多直家も、三村軍の来襲に備え、上道郡沢田村の明禅寺山に城を築き、城番の
軍勢を差し置いた。1566年中はこの城をめぐって小競り合い程度が行われるだけだった。

1567年春、御野郡に進んだ三村軍は、明禅寺城に夜襲をかけ、沢田村を焼き払って城へ攻め
入った。城内は混乱し、50〜60人が討死し、それ以外は沼城に敗走した。
こうして明禅寺城に入った三村軍は、家臣の根矢・薬師寺ら150人に城を守らせた。

これに対し直家は、三村方の武将に賄賂を贈り、金光氏、中島氏、須々木氏らを再び味方に
つけた。さらに明禅寺城を大軍で囲み、守将の根矢・薬師寺らに降伏勧告を行ったが、これら
はそれを拒み、三村元親に援軍要請の使者を出した。
直家のほうも、その援軍に来た三村本軍を野戦で破る気でいたので、内通させていた金光氏
に、元親に偽の援軍要請の使者を送るよう命令した。

金光氏の偽の援軍要請を受けた三村家臣の石川久智は、元親にこの事を報告した。
元親は明禅寺城の根矢・薬師寺からも同様の使者があったので、これを信じ、評議を開いた。
評議では、明禅寺城の兵と協力して直家を挟撃するという計略をたて、元親は備中の諸将に
出動命令を発した。



                     〜明禅寺合戦〜

総大将は三村修理亮元親で、以下石川久智、植木秀長、庄元祐が加わり、総勢二万の軍勢
で備前に向かった。その間に直家も5千の兵で明禅寺城を攻めていた。

三村軍は備前に入り、辛川表で軍議を開き、庄軍7千を先陣として明禅寺城の後詰めにして、
石川軍5千を中軍として直家本陣を突かせ、三村元親本軍8千は留守中の宇喜多氏の居城・
沼城を乗っ取り、宇喜多勢を相撃するという作戦をたてた。

しかし直家は、挟撃されることを恐れ、三村軍が到着する前に城を落とそうと考え、城に対し
怒涛のように攻め立てたので、城将の根矢・薬師寺らは遂に討死した。
城を乗っ取った直家は、櫓々に火を放ち、散々に斬ってまわった。

一方、落城を知らない三村軍の先陣・庄軍は国富村近くを進軍していると、明禅寺城から
敗走してくる味方に逢い、さらに直後に宇喜多軍の戸川・長船・明石・延原らの軍勢が
三棹山から下って突進してきたので、庄軍は混乱し、備えを崩して敗走をはじめた。
大将の庄元祐も、兵を鼓舞し奮戦したが、数ヶ所に傷を負い、遂に徳与寺近辺で
能勢修理という者によって討死した。

中軍の石川久智の軍勢は、原尾島村のあたりで宇喜多基家軍と遭遇し、両軍は鉄砲を
撃ち合い、しばらく揉みあった。そこへ家臣の中島加賀から、竹田村まで引き返して戦うべき
だと勧められ、石川軍は退却をはじめた。宇喜多軍もこれを追ったので、石川軍の戦死者は
多かったが、伊勢新左衛門・中島加賀らの奮戦によって宇喜多軍の追撃を振りきった。
こうして生き残った石川の兵は、元親本軍に加わる者もいれば、備中に帰る者もいた。

この様子を見ていた元親は、作戦を中止して沼城へは向かわず、直家本陣のある小丸山に
向かって突撃をはじめた。この猛烈な勢いに、宇喜多軍先陣の明石・岡の軍勢は忽ち崩れ
はじめた。しかし、後陣に控えていた戸川・長船・浮田・延原らの軍勢が、元親軍へ横合いから
攻めかかったので、元親軍はついに総崩れとなった。その後も元親は単騎で宇喜多勢に挑もう
としたが、家臣がこれを静止し、結局備中へ敗走することとなった。
これが「明禅寺崩れ」と言われる備中勢の大敗戦である。


この大敗によって、三村氏に従っていた西備前の豪族たちは宇喜多氏に降参した。
さらに直家は、1568年8月に備中に侵攻し、撫川城、猿掛城、斎田城を降伏させ、さらに備中国
人の庄高資を寝返らせ、三村氏の居城・備中松山城を乗っ取らせた。このため、元親は居城を
成羽城に移すこととなった。

3、毛利氏の加勢

宇喜多勢が備中に侵攻しているとき、三村氏の盟主・毛利氏は九州に遠征中であったため
援軍を送ることができなかったが、1569年にようやく帰国した毛利軍は、三村勢を援護する
ため、穂田(毛利)元清1万の軍勢で備中に向かった。

備中に到着した毛利軍は、まず備中西南部の奪回をはじめ、宇喜多氏が占領していた
猿掛城を落とした。そして成羽城の三村元親らと合流し、宇喜多方に寝返っていた斎田城の
植木秀長を攻めた。しかし斎田城は堅城で、力攻めでは負傷者が多数でるだろうと判断し、
四方を囲んで遠攻めにし、城内の兵糧が尽きるのを待つことにした。

数日後、兵糧が尽きかけてきた城方は、ついに宇喜多直家に援軍要請の使者を出した。
この援軍要請を受けて、直家はすぐさま出陣の準備をし、1万の大軍で備中に向かった。

備中に着いた宇喜多軍は、斎田城から東1里ばかりのところに陣取り、城兵とともに
毛利軍を挟撃した。だが、毛利方の熊谷・桂らの活躍によって、毛利軍はこれを退けた。
こうなれば宇喜多勢もどうすることも出来ず、ただ空しく日が経っていった。

そこへ、今まで中立を保っていた石川・福井・工藤らが宇喜多方についたので、城内の
士気が多いにあがり、城門を開けて毛利軍目掛けて突撃を開始した。さらに、これを見た
宇喜多勢も毛利軍を背後から攻めたので、毛利勢は浮き足立ち、総崩れとなって退却した。
この合戦で毛利方が討ちとられた首級は680に及んだ。なお、三村元親もこれで深手を
負い、従者に支えられながら退いた。

4、備中平定戦

1570年、毛利氏に滅ぼされた尼子家を再興するため、尼子勝久・山中鹿之介らは備中進出
を企て、そのため反毛利勢力である宇喜多直家と手を結んだ。
両者は早速備中に侵攻し、幸山城の石川氏、石賀、安達、呰部城の植木氏、松山城の庄氏ら
を降伏させ、さらに尼子氏に降った庄氏は毛利方の城二、三ヶ所を攻め落とした。

この状況を聞いた毛利氏は、再び穂田(毛利)元清に八千騎をつけて備中に向かわせ、
三村元親が先陣となり庄氏の備中松山城を攻め、これを落とした。さらに毛利軍は尼子方に
降参した城を次々と攻め落とし、このため戦わずして降参する者も多かった。

しかし斎田城の植木氏だけは毛利に降らなかったので、元清は所領安堵をすると誘って、
これに降参した資富を騙し討ちにした。

こうして備中の全土を制圧した毛利氏は、備中松山城など備中の諸城を三村元親に預け、
こうして元親も再び備中松山城に返り咲くことになった。

5、衝撃の毛利・宇喜多同盟

毛利氏の備中平定後、毛利・三村連合軍は幾度となく宇喜多勢と合戦を繰り返していた。

一方、中央情勢では織田信長が将軍・足利義昭を京から追放し、いよいよ中国地方に目を
向けはじめていた。京から追放された義昭は、毛利氏を頼り、さらに宇喜多氏との和睦を要求。
毛利・宇喜多両氏は義昭の頼みを断る訳にはいかず、ついに両氏の和睦が成った。

しかし、この和睦に不満なのが三村氏である。父・家親を暗殺され、明禅寺合戦で大敗させられ
ている宇喜多氏との和睦など、受け入れられるはずがなかった。そこへ、毛利氏と不仲だった
織田信長から使者が来て、毛利から離反して織田方に付くようにと誘われ、元親はついに織田
氏に内通する決心をした。しかし、叔父の三村親成・親信親子はこれに反対し、毛利方の経山城
に逃げ込み、毛利氏にこのことを報告した。

元親はさらに、反毛利・宇喜多勢力である備前の浦上宗景、美作の三浦貞広らと結び、
対抗姿勢を強めた。

6、天正の備中兵乱〜元親の最期〜

三村親成・親信親子や宇喜多直家から、三村元親謀叛を聞いた毛利氏は、すぐさま三村氏を
討伐すべく、小早川隆景を先陣として備中笠岡に出陣させ、本軍の毛利輝元は備中の小田郡
に布陣した。毛利軍はまず小田郡の猿掛城を包囲し、これを攻め落とした。

                   
    〜国吉城の戦い〜
さらに三村親成を先陣として、川上郡の国吉城を取り囲んだ。この城の城主・三村政親は
もともと臆病な性格で、12月31日に20人ばかりの従者とともに城を出ていってしまった。
これにより城内は大騒ぎになり、さらに1575年1月1日に寄せ手は総攻撃を開始した。
しかし政親の子・新四郎が城内を指揮し、寄せ手に弓・鉄砲を射たが、寄せ手の攻撃は凄ま
じく、ついに大手門を破られた。城内でも三村軍は必死に抵抗するが、ついに新四郎は討死し、
残った兵は備中松山城に敗走した。


国吉城の落城後、同じく毛利軍に攻められていた鶴首城も落ちたため、毛利軍は成羽に陣を
替えた。

                       
〜楪城の戦い〜
毛利軍は次に楪城に攻めこんだ。楪城の城主は三村元範といって元親の弟であったが、
父・家親譲りの戦上手であったので毛利軍も苦戦を強いられた。だが、城内に毛利方に内通
するものがあり、敵を引き入れたので戦況は一変した。しかし元範は少しも騒がず、城内に
入ってきた敵兵を斬り廻った。だが、多くの味方を討たれ、限界をさとった元範は、美作の三浦
貞広を頼って落ちていった。
そこへ毛利方の兵が50騎で元範を追撃したため、元範は断崖絶壁の岩屋に立て篭った。
しかし、ここから逃れる術もなく、元範はいよいよ自害を決心した。
そこへ毛利方の放った矢が元範の喉を突き、元範は腹をかき切って死んだ。


1月17日には荒平城の三村阿西入道が降伏し、20日には美袋の三村忠秀が降伏した。
両者は児島へ流されることになった。幸山城の石川久式は、城を捨て、備中松山城に入って
元親とともに毛利軍を迎え撃とうとした。

2月3日、上田氏の鬼身城が攻められ、城主の上田入道は養子の上田実親を切腹させて降伏
した。入道は阿波に落ちていき、世間は、自分は切腹せず養子を切腹させて降伏した入道に
呆れ、この非道を憎んだ。

                       
〜備中松山城の戦い〜
4月7日、ついに元親居城の備中松山城が、小早川(毛利)・宇喜多連合軍に包囲された。
隆景らは松山城に昼夜休まず攻め立てたが、元親も城内でよく指揮し、落城の気配を見せな
かった。そこで隆景は力攻めをやめて持久戦にし、さらに陣中に備中出身で、三村方に親しい
ものがいるという者がいて、それを間者として城内に入れこんだ。その間者は城内の天神の丸
にいて、そこへ毛利・宇喜多勢を引き入れた。こうして忽ち天神の丸を落とされ、これが要因で
松山城は落城した。


城を脱出した元親は、途中で谷から転落して気絶し、家臣は散り散りになって逃げて行った。
しかし、残った2人の家臣によって助けられた。だが、今度は元親の刀が鞘から抜けて、元親
の足を傷つけた。こうして歩行が出来なくなった元親はついに諦め、松連寺に入って切腹した。

辞世の句
〜思いしれ 行き帰るべき 道もなし 本のまことを 其侭にして〜
人という 名をかる程や 末の露 消えてぞ帰る 本の雫に〜

この元親には8歳になる勝法師丸という子があり、毛利氏に捕らえられて井山宝福寺に送られ
たが、勝法師丸は生まれつき賢明だったので、小早川隆景は後々の事を考えて勝法師丸の首
を斬った。そのとき勝法師丸は少しも騒がず、見事な最期であったという。

辞世の句
〜夢の世に 幻の身の 生まれきて 露に宿かる 宵の稲妻〜
三村元親
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