ここでは、手塚治虫先生の生い立ちを紹介します。
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年代(昭和) | 年齢 | 出来事 |
1928(3) | 0 | 大阪府豊能郡豊中町(現・豊中市)に手塚家の長男として生まれる。 |
1933(8) | 5 | 兵庫県川辺郡小浜村(現・宝塚市)に引っ越す。 |
1935(10) | 7 | 大阪府立池田師範附属小学校(現・大阪教育大学附属池田小学校)に入学する。 |
1936(11) | 8 | 「ガジャボイ」というあだ名をつけられる。 |
1937(12) | 9 | 最初の漫画「ピンピン生ちゃん」を描く。 |
〃 | 〃 | 田河水泡先生の「のらくろ」を愛読する。 |
1939(14) | 11 | 「支那の夜」という長編漫画を描いて学校を回覧し、先生にも評判となる。 |
〃 | 〃 | 昆虫採集に夢中になり、友達に見せてもらった昆虫図鑑で「オサムシ」という虫を知り、ペンネームを「治虫」とつける。 |
1941(16) | 13 | 小学校を卒業し、大阪府立北野中学校(現・北野高校)に入学し、美術部に入る。 |
1942(17) | 14 | ヒゲオヤジを主人公とした、漫画「オヤジ探偵」を描く。 |
〃 | 〃 | 自分で絵をかいた昆虫図鑑「甲虫図譜」を作る。 |
1943(18) | 15 | 六陵昆虫研究会をつくって、「昆虫の世界」を発行する。 |
1945(20) | 17 | 映画「桃太郎 海の神兵」を見て、感激する。 |
〃 | 〃 | 戦争のため4年で卒業し、大阪大学附属医学専門部に入学する。 |
1946(21) | 18 | 大学生の劇団「学友座」に参加する。 |
〃 | 〃 | 毎日小国民新聞大阪版(現・毎日小学生新聞)にデビュー作の4コマ漫画「マアチャンの日記帳」の連載が始まる。 |
1947(22) | 19 | かきおろし長編漫画「新宝島」(原作・酒井七馬)を刊行し、40万部売れる。 |
1948(23) | 20 | 「ロストワールド」など、14冊の赤本を刊行する。 |
1949(24) | 21 | 「メトロポリス」など、5冊の赤本を刊行する。 |
1950(25) | 22 | 「ジャングル大帝」を漫画少年に連載する。 |
1951(26) | 23 | 「アトム大使」を少年に連載する。 |
〃 | 〃 | 大阪大学附属医学専門部を卒業する。 |
〃 | 〃 | 島田啓三を中心に東京児童漫画会が結成され、それに入会する。 |
1952(27) | 24 | 第12回医師国家試験に合格する。 |
〃 | 〃 | 「アトム大使」を「鉄腕アトム」に新しくして、少年で長期連載が始まる。 |
〃 | 〃 | 仕事が忙しくなり、仕事場を東京に移し、新宿区四谷の八百屋の2階に下宿する。 |
1953(28) | 25 | 「リボンの騎士」を少女クラブに連載する。 |
〃 | 〃 | 都内豊島区椎名町のトキワ荘へ引っ越す。 |
1954(29) | 26 | 「火の鳥」を漫画少年に連載する。 |
〃 | 〃 | 都内豊島区雑司ヶ谷の並木ハウスへ引っ越す。 |
1955(30) | 27 | ラジオ東京で、連続ドラマ「リボンの騎士」が放送される。 |
1957(32) | 29 | 都内渋谷区代々木初台に引っ越す。 |
1958(33) | 30 | 東映動画の嘱託になり、「西遊記」の原案構成、演出を受けもつ。(最初のアニメの仕事) |
1959(34) | 31 | 岡田悦子さんと結婚する。 |
1960(35) | 32 | 都内練馬区谷原町(現・富士見台)に家を新築する。 |
1961(36) | 33 | 長男の真(手塚眞)が生まれる。 |
〃 | 〃 | 手塚プロダクション動画部を設立する。 |
〃 | 〃 | 奈良県立医科大学で医学博士の学位をとる。 |
1962(37) | 34 | プロダクション名を虫プロダクションと変える。 |
〃 | 〃 | 虫プロダクション第1回作品発表会を行う。 |
1963(38) | 35 | 国産初の30分テレビアニメシリーズ「鉄腕アトム」が放送される。 |
〃 | 〃 | アメリカのNBCとの契約のため、アメリカに行って、ニューヨークで「鉄腕アトム」の試写会がおこなわれる。 |
1964(39) | 36 | ニューヨーク世界博で、ウォルト・ディズニーに会う。 |
〃 | 〃 | 長女のるみ子が生まれる。 |
1965(40) | 37 | 国産初のカラーテレビアニメシリーズ「ジャングル大帝」が放送される。 |
1966(41) | 38 | 虫プロ商事を作る。 |
〃 | 〃 | 実験アニメ「展覧会の絵」を公開する。 |
1967(42) | 39 | 漫画雑誌「COM」を創刊する。 |
〃 | 〃 | テレビアニメ「悟空の大冒険」と「リボンの騎士」が放送される。 |
〃 | 〃 | 「展覧会の絵」・「ジャングル大帝」・「鉄腕アトム」などのアニメで、数々の賞を受賞する。 |
1968(43) | 40 | 漫画制作のために、株式会社手塚プロダクションを設立する。 |
1969(44) | 41 | 劇場用長編アニメ映画「千夜一夜物語」を公開し、大ヒットとなる。 |
〃 | 〃 | 「ぼくはマンガ家」を出版する。 |
〃 | 〃 | 次女の千以子が生まれる。 |
1970(45) | 42 | 大阪万国博覧会の展示をてがける。 |
〃 | 〃 | 虫プロ商事の社長に就任する。 |
〃 | 〃 | 長編アニメ「クレオパトラ」を公開する。 |
1971(46) | 43 | 虫プロダクションの社長を辞める。 |
〃 | 〃 | 雑誌「少年ジャンプ」に新人のための賞「手塚賞」が創設され、審査員となる。 |
1972(47) | 44 | テレビアニメ「海のトリトン」が放送される。 |
〃 | 〃 | 雑誌の「希望の友」に「ブッダ」を連載する。(雑誌を変えて、1983年まで続けられる) |
1973(48) | 45 | 虫プロ商事・虫プロダクションが倒産する。 |
〃 | 〃 | 「少年チャンピオン」に「ブラック・ジャック」を連載する。(1978年まで続けられる) |
1974(49) | 46 | 「少年マガジン」に「三つ目がとおる」を連載する。(1978年まで続けられる) |
〃 | 〃 | 都内杉並区下井草に引っ越す。 |
1976(51) | 48 | アメリカへ旅行する。 |
1977(52) | 49 | 講談社から「手塚治虫漫画全集」全300巻(のちに全400巻)の刊行開始。 |
〃 | 〃 | 急性肝炎で日本医科大学病院に入院する。 |
1978(53) | 50 | 新しく発足した日本アニメーション協会の初代会長となる。 |
〃 | 〃 | 「ジャングル大帝」の「レオ」が西武ライオンズのペットマークに採用される。 |
〃 | 〃 | テレビアニメ「バンダーブック」を発表する。 |
1979(54) | 51 | 手塚治虫ファン大会が東京の九段会館で開催される。 |
1980(55) | 52 | 国際交流基金の漫画大使として、アメリカで現代日本の漫画文化について講演する。 |
〃 | 〃 | 都下東久留米市へ引っ越す。 |
〃 | 〃 | アニメ映画「火の鳥 2772」を発表する。 |
〃 | 〃 | 手塚プロ制作テレビアニメ「鉄腕アトム」放映開始。 |
〃 | 〃 | 中国で「鉄腕アトム」が放送される。 |
1981(56) | 53 | 中国に旅行する。 |
1982(57) | 54 | フランスでの第10回コミック・コンベンションに参加。 |
〃 | 〃 | 長野県白馬村で漫画集団結成50周年・マンガ王国に参加。 |
1983(58) | 55 | 母の文子が亡くなる。(享年74歳) |
1984(59) | 56 | 「手塚治虫漫画全集」が完結する。 |
〃 | 〃 | 実験アニメ「ジャンピング」を制作する。 |
〃 | 〃 | 「急性肝炎、胆石」で入院をする。 |
1985(60) | 57 | 実験アニメ「おんぼろフィルム」を制作する。 |
〃 | 〃 | 第1回広島国際アニメ映画祭に審査員副委員長として出席をする。 |
〃 | 〃 | 「おんぼろフィルム」で第1回広島国際アニメ映画祭グランプリを受賞する。 |
〃 | 〃 | 第7回ザグレブ国際アニメ映画祭に審査員として出席をする。 |
1986(61) | 58 | 父の粲が亡くなる。(享年86歳) |
〃 | 〃 | 「アドルフに告ぐ」で第10回講談社漫画賞を受賞する。 |
1987(62) | 59 | 「コミックトム」に「ルードウィヒ・B」を連載する。(完結しなかった) |
〃 | 〃 | 「ビックコミック」に「グリンゴ」を連載する。(完結しなかった) |
〃 | 〃 | 第2回広島国際アニメに大会副会長・審査員として出席をする。 |
1988(63) | 60 | 「朝日ジャーナル」に「ネオファウスト・第1部」を連載する。(1989年まで続けられる) |
〃 | 〃 | 3月に胃の手術のため入院する。(5月に退院したが、11月に再入院する) |
〃 | 〃 | 上海国際アニメ祭に審査委員として出席をする。 |
1989(平成・元年) | 〃 | 2月9日に胃がんのため亡くなる。(享年60歳) |