「さん」


               慈愛に満ちた神父の声が、前方を歩く尼僧の名を呼んだ。










               The place of the start is this conduct oneself   Rome.










               純白の尼僧服に身を包んだ繊細な影は、ゆっくりと歩を石畳の上に止めた。
               気だるげに振り向いた其の姿は、見た者の息を止める程美しい。

               だが少女とも大人ともつかない、今だ成熟仕切らぬ其の美貌は何処か不健康な色気を湛えていた。
               そしてまた、肩を怒らせて頑なに周囲を拒む必死さをも。


               「研修を優秀な成績で終わらせたと聞きました   おめでとうございます」
               「…別に褒められる様な事をした覚えはないわ」


               純粋な賛辞を冷たくあしらう若い尼僧にも、アベルは見事に相好を崩した侭だった。
               そしてまた、少女も再び歩き出す訳でも無く、先程まで自分が居た建物を仰いだだけである。

               常に変わらぬ微笑を湛える使徒の群像を一瞥して、は再び口を開いた。


               「   それで?スフォルツァ卿から早速任務の要請でも?」
               「やだなぁ、私一昨日任務終わらせたばっかりなもんで…今仕事の話は正直勘弁願いたい所です」
               「…なら何?用事が無いのなら私はもう行くわよ」


               額に掛かる髪をやや苛立たしげに掻き上げ、少女は頭一つ半高い神父を睨んだ。















               『この殺人機械…私に今すぐ壊させなさい』


               冷たく発した言葉は、緋色の麗人に向けられた物だった。
               少し顎をそびやかし微笑む彼女の姿は、気高い野生の狼そのものである。
               この条件、呑まないなら牙を剥くまでだ、と凄惨なまでな気迫が辺りに満ちていた。

  
               『…何故また、其れが条件として出てくるのですか』
               『冗談言わないで   貴女に理解出来ない筈が無いわ、
                そもそも私の両親を殺せと命じたのは貴女なのでしょう?
                貴女の代わりに、機械を壊すだけで我慢してあげると言っているのよ』


               カテリーナの舌鋒を叩き割った返答、口調は穏やかであれ内実は先程にも増して激しい。

               両性具有者ハーマフラダイトとは言え、の身体能力は吸血鬼の其れとなんら変わりは無い。
               彼女の言う所の壊す、も腕一本等の生易しい物ではなく、
               トレスを鉄屑に変える事を指しているのは容易に想像が付く。

               ほんの僅か、不快感を表して緋色の麗人の瞳が瞬いた。
               しかし其れも一瞬の事、カテリーナの静かな気迫がの其れと対峙する。


               『   其れは了承出来ません』


               甘やかな声が拒絶する。
               瞬間、少女が怒りに瞬いた。


               『人間は殺しても構わず…機械は壊してはならないと?』
               『…その様な理由からではありません』
               『    ならどんな理由があると言うの!?』
               『其れには返答し兼ねます…再度言います、其の条件は了承出来ません』


               鋭利な牙が皮膚を突き破るのも構わず、は唇を噛み締めた。
               今にもこの場に居る者を皆殺し仕兼ねない程の殺気が辺りに満ちる。
               だが”鉄の女”は少女の様子にも些かも動じた様子は見せなかった。
               豪奢な金髪の奥の剃刀色の瞳だけが、彼女の意図を映している。

               もしが怒りに我を忘れたならば、即座にカテリーナの”鋼鉄の猟犬ガンメタルハウンド”が彼女の喉笛に喰
               らい付いていただろう。   しかし、猟犬は銃を掲げる代わりに薄い唇を開いた。


               『   ミラノ公、妥協策を提案する』
               『…”ガンスリンガー”』


               世界で一番美しい枢機卿が嗜める声にも、小柄な神父は言葉を止めない。


               『ミラノ公の許可範囲だったとは言え、判断を下したのは俺だ   彼女の要求は容認すべきと判断される』
               『…貴方、正気?』


               思わず声を掛けたのは、先程までの殺気が嘘の様に失せた少女。
               機械が主人に対して意見をするなど   は思いも寄らぬ発言者に驚愕を隠せない。
               そもそもこの機械に、殺した相手への憐憫の情があるとは思えなかった。

               怒りも忘れ、少女は只々僧衣の男を凝視するしかない。


               『だが   
               『………………』
               『俺はまだ、ミラノ公に仕える必要がある…俺が本当に廃棄される必要が来た時に、卿の要求を果たせ』


               驚愕していたのは、何も一人ではなかった。
               すっかり顔色が元に戻った銀髪の神父も、彼の飼主さえも二の句を探しあぐねている。
               其れ程までに、トレスが饒舌なのは稀有な事だった。

               最早挙動不審としか表現できない様子で、少女は答えに詰まる。
               彼女の脳裏を駆けるのは両親か、怒りか、妥協か   再び静か過ぎる沈黙が辺りを支配した。

               …自分は、本当に何がしたかったのだろうか?

               不意に浮かんだ戸惑いに、少女は流される。

               確かに彼等のやり方は強引極まりない、自分の意思など無関係に奪い尽くした。
               しかし、彼等に対する自分の今までの言動は   あまりにも幼稚であった様にには思えた。
               様々な思惑が少女の脳裏を過ぎっては消える。

               優に数十分は過ぎた頃。
               人に、吸血鬼に在らざる少女は   殺人人形に重い口を開いた。


               『               今言った事、忘れないで』
               『   当然だ』















               眼の前の男が唐突に告げた言葉は、少女の双眸を点に変えるには十分だった。
               それでも尚、努めて冷静に切り返したは流石と言うしかない。


               「…アベル貴方、空腹が過ぎると虚言症でも起こす人だったかしら」
               「ちょっちょっちょっ待って下さいよさん!酷いじゃないですか!」
               「そうね虚言症どころじゃないわ、恥を知る人なら絶対にそんな事口にしないでしょうね」


               少なくとも私なら死んでも言わないわよ、と氷を添えるのも尼僧は忘れなかった。
               あまりにも冷たくあしらわれ、今更ながらに恥じ入って薄っすら顔を赤くした神父を冷ややかに見遣る。

               それに涙すら浮かべ、アベルは悲嘆を叫んだ。


               「うう、主よ私の人生何だか目一杯踏み躙られてます…!!!」
               「人聞きが悪いわね、私貴方の人生なんて踏み躙った所で面白くも何とも無くってよ」
               「酷…!酷過ぎますよさあぁん!
                私は何があっても貴女の味方ですよって励ましてあげただけじゃないですかぁ!!!」
               「自分を殺しかけた相手に平気で言えるわね。それと恥ずかしいからもう言わないでそのクサい台詞」
               「何を言いますか!『己を愛するが如く隣人を愛せよ』と主も仰っていますよ!」
               「馬鹿」


               無意味に胸を張る神父はそのまま放って、は不意に歩き出す。
               短い間隔ながら速い其の歩、慌てて追いかける彼の歩幅は更に大きかった。
               幾等もしない内に肩を並べる羽目になった少女は、鬱陶しいと言わんばかりにアベルを睨め付ける。
               本心からそんな事が言えるものか、上辺を繕うなと左右非対称の瞳孔を持つ瞳が語っていた。

               だが神父はへらっと笑みを浮かべて、穏やかに付け足す。


               「嘘じゃないですから」
               「………………………」
               「あと、肩の力もうちょっとだけ抜いてみて下さい」


               突如走るとしか形容出来ぬ速度で、尼僧は男を抜いた。


               「えっ、ちょっとさん置いてかないで下さいってば」
               「昼食」
               「はい?」
               「昼食に行くって言ってるのよ   どうせまともな食事してないんでしょう」

  
               現にこの間行き倒れてたでしょう、と彼女が付け足した途端、雲の切れ間から陽光が漏れ少女と神父を照らす。
               春風に弄られた髪は眩く輝き、ともすれば光輪と純白の翼までも錯覚させんばかりだった。

               そして其の侭が歩を止める事は無く、また今度ばかりはアベルも簡単には追い付けない。


               「いやそもそも私が食事にありつけないのは金欠だからなんですってば…!」
               「誰が奢らないなんて言ったのかしら」
               「はい!?じゃ、じゃあさん…!!!」


               あっりがとーございますー!と目を輝かせ絶叫する怪しい神父は華麗なまでに無視して、尼僧は歩を進めた。
               それから数十秒後には、恍惚状態から脱したアベルが慌ててその後を追いかけている。

               洪水の如き賛辞をが悉く無言で流しているのを、神父が知るのはそう後の事ではない様だ。
               そして、それでもアベルが大声で彼女の名前を呼びつつ追いかけるのも。

               やがて、風に捲れた僧帽コイフの陰から辛うじて彼に見えた彼女の頬は、酷く紅かった。










               聖暦657年、春。
               彼女の歴史は此処   ローマで始まる。




















               END



               

               長々とお付き合い頂いてありがとうございます。
               前半は安産なのですが後半は難産となるトリブラ…怖い(めそめそ)
               これでプロローグと言うのですから目も当てられませんが、これからも続く予定です。
               段々と文が拙くなりが拉げて行くでしょうが愛で書き切る事でしょう。

               冷めた視線で構いませんので見守ってやって下さい。