SUMMER VOYAGE 潮の香りをふんだんに含んでいながらその特有の湿り気を微塵も感じさせない、地中海特有の気持ちのよい潮風が吹いている。 一年を通じ温暖な南ヨーロッパの気候は、初夏ともなると北よりも遥かに暑い。 快晴を告げる日差しは既に真夏のそれだ。 そんな汗ばむ陽気の中、クイーン・ヴィクトリア号はアルビオンからナポリに向けての船旅を順調に続けていた。 全長245m、総重量45,526t、速度21ノット、千余人を乗船可能。 アルビオンが世界に誇る最大の豪華客船は、”大災厄アルマゲドン”以前に君臨した偉大な女王の名前を戴いている。 そしてその名に恥じる事のない外観と、他のどんな客船にも劣らぬ速度を持つこの船は、威風堂々と波を掻き分け続けていた。 ポーツマスを出航して早7日。 デッキから波上に跳ぶ魚の群れを気怠げに目で追いつつ、少女は船の進行に一役買えそうな勢いで溜息を吐いた。 だが、彼女が溜息を吐いたのは何もこの船旅がつまらないからではない。 むしろ任務中だと言うのにそんな事を考えているのは職務怠慢だ。 アルビオンからローマに帰還するVIPの警護 …だから、すぐ隣で手摺に寄りかかって眠りこけるという非常に器用な芸当をやってのけている同僚にはどうしても我慢が出来なかった。 「 珍しく聖職者としての言葉を少女 「 「 素っ頓狂な悲鳴を上げて、虚を突かれた男は両手をプロペラよろしく振り回す。 ひょろ長い身長が災いしたか、バランスを崩した上半身は手摺のみを頼りにして見事な振り子運動を披露していた。 下手をすれば、反動で下半身までが空を飛んでそのまま海面に向かって急降下、果ては海の藻屑となりかねない勢いだ。 一方彼のその危機的状況を作り出した少女はといえば、目の前の男が成す狂乱の態に冷め切った眼差しを送っている。 彼の背中にもう一突き喰らわせてやるか、それとも悪巫山戯けはここいらで仕舞いにするか だが、そんな物騒な彼女の戯れも背に届いた甘やかな声によって終わりを見る。 「 決して快く思っていないだろう、刺々しい雰囲気をありありとみなぎらせた視線が後ろを向いた。 ガーデンパラソルの下、鍔広の帽子の奥で華の様に微笑む美貌は二重の影を受けていながら尚白い。 今日は何処にも見当たらない真紅の法衣、代わりにしなやかな肢体を覆っているのはライラックのシンプルなドレスだ。 それでも彼女の生まれつき持った美貌と気品は微塵も損なわれぬ。 そして、穏やかに本のページを捲るそのたおやかな女性が”鉄の女””ミラノの牝狐”と異名を取る枢機卿 片眼鏡モノクルを外した麗人は、紅茶のカップを口元に運びながら再度微笑んだ。 「…そんな事くらい分かってるわ」 対して剣呑に答えたの右手は、先程まで死の淵に転がり落ちかけていた神父 「暇つぶしよ」 「ううっ…さん、何だか私の目の前にお花畑がですね…!」 悪びれもせず言い放った少女の傍ら、間髪入れずに抗議したのは再び死の淵へのめり込まんとしていた青年だ。 彼もまた深い紺のスーツに長身を包んでおり、一見すれば立派な紳士である。 しかしアベルの優雅とは程遠い言動はそれらを台無しにしているのだった。 そんな青年と少女のやり取りを、遠巻きにデッキで和んでいた他の客達が怯えた様に見ている。 「ですが、あまり目立つ行動は控えて下さいね」 「だからお忍びだなんて危険すぎると忠告したはずよ、私」 「 やっと掴んでいた銀髪を放し、カテリーナの注意を完璧に聞き流した上で自分の事を棚に上げて上司の行動を諌めただったが 抑揚を恐ろしく欠いた平淡な声音は、ライラック色の貴婦人の隣に影の様に佇む小柄な男のものである。 短く刈ったブルネットの髪の下には作り物めいて端正で無表情な顔、初夏という季節にも関わらず黒に近いグレーのスーツを一分の隙なく着こなしたその男 「”アイアンメイデン”が修理中とはいえ、代わりの飛行船は幾等でもチャーター出来た筈だ 「大丈夫ですよトレス…私がこの船に乗るという情報は関係者以外一切知りません」 「だが 「まぁ…囮ダミーの飛行船もローマに向けて飛んでる事ですし、ちょっとした休暇だと思えばいいんじゃないですか?」 彼の言葉を遮った、おっとりした声は先程二度も死の淵から生還した強者、アベルのものだ。 やトレスとは異なり、彼はカテリーナの肩を持つつもりと見える。 しかしそれは思慮無くしての行動ではない。 公人としてのカテリーナが如何に普段多忙であるかを知っているからこそ、 少しでも私人としての時間を過ごさせてあげたいという彼なりの心遣いなのだろう。 先日、国務聖省長官であるカテリーナ・スフォルツァはアルビオンにて女王ブリジット二世と会談を行った。 一護衛に過ぎないはその内容を知る事はなかったが、”ミラノの牝狐”と”ロンディニウムの雌蝮”の遣り取りは聞かなくて正解だったと思う。 そして恙無く会談は終了し、現在カテリーナは派遣執行官達と共に帰路に着いているという訳である。 教皇庁ヴァチカンの枢機卿である彼女が少数しか護衛を着けずにこのような交通手段を利用しているのは聊か警戒心が低過ぎるともいえるが、 彼女程の要人がこのような姿に身を窶しているとは普通思いも寄らないだろう。 既に囮として飛行船も数日間のロスを加えた上でローマに向かって飛ばしており、情報操作も行っている。 先程から彼等が”神父ファーザー””シスター”などの称号を用いずに会話しているのもその為だ。 そしてクイーン・ヴィクトリア号は彼等をその背に乗せて、優雅に地中海を進んでいるのだった。 「そうね…休暇だと思えばいいかもね、普段から彼女は働きすぎだもの」 意外な言葉を呟いたのは、鷹揚に手摺に寄りかかって肘を置き水平線を眺める少女のものである。 それは格好とは凡そそぐわぬ行動ではあったが、白いドレスの裾が風に翻る姿はさながら気高い天使の様だった。 「 正しいも何もない、彼は機械マシーンだ それでも巨大な氷塊の様な声音でトレスが少女を咎めたのは、あっさりと彼に叛旗を翻したが”許せなかった”のかもしれない。 厭に皮肉気に聞こえた科白に、少女は流し目を遣りつつ鼻で嘲笑ってみせる。 しかし何か別の思惑を垣間見せたそれは誰の目にも留まる事のないまま、アベルの暢気な声に掻き消された。 「話が分かりますね〜さん!流石私が見込んだだけあります!」 「馬鹿」 舌に油を塗ったかの如くお世辞を垂れ流す青年にぴしゃりと棘を刺した少女は、不意に手摺からその身を離す。 そのままストラップシューズの堅い音が向かう先はデッキの奥、船の中央部だ。 いとも簡単に任務を放棄したかのような彼女の行動に、アベルの慌てたような声が飛んだ。 「ちょ、さん何処に行かれるんですか!」 「そこのカフェよ、休憩に決まってるでしょう」 矢張り彼も自分の事を棚の一番上に上げている様子だ。 そんな事も追及するのも億劫なのか、は鷹揚に片手を挙げて返事をしてみせた。 続いて、艶やかな声がやんわりと彼の制止を引き止める。 「いいのです、私が勧めたのですから 鈍色の瞳を優しく細めて微笑む貴婦人は、彼をそう促した。 それに青年は驚いた様に軽く目を見張る。 しかしカテリーナの笑顔に穏やかなものを認めて安心したか、「ありがとうございます」とアベルは呟いてそのまま華奢な背を追った。 ![]() |