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第二章 社会民度の低下 第二節「ある神官見習い学生を見て」
この小節ではたまたまの奇縁で和源の神官過程前期学習(神官見習いと呼んでいます)で精進している、高校卒業の十九歳女子を指導していて感じたことを窓にして、現代の高校生程度の自己精神能力、社会・国際感覚や危機対策などの現状を考察する。
まず室内の作法や言葉のかけ方などの実際その場所にいなくては、文面を読んだだけではわかりにくいことは割愛して、学力や社会認識という点で話を進めていく。
平成十七・十八年頃のベストセラーに「国家の品格」(著者藤原正彦氏)という本がある。特に気にしていたわけではないが、ふと古書店で目に付き購入し書棚に仕舞っておいた。しばらくして神官見習いの女子が、はるばる一宮市からやってきた。
神官見習い女子と話をしていてふと「国家の品格」を読書させてみて社会認識の反応を見たいと思った。「国家の品格」はおそらく中学生の学力があればそこそこ読める程度に工夫してある。高校卒業しているのだから当たり前に読書し、それについてどのように考えるかという意見が聞けるだろうと期待して待ったが、いくらたっても答えは出てこない。首を傾げるだけである。どうしたのか聞いてみれば難しくて意味が解らないという。その言葉を聞いて驚愕した。
なぜ驚愕したのか?、それはその女子がいたって普通にどこにでもいる風の人だったからである。その神官見習いの女子から話を聞いても他の人も社会問題や国の話をすることなどは一切無く「生き方」も「生き様」も話をしたことが無いという回答が帰ってきた。
平和ボケもここまで到達している。平和ボケ、完全な平和ボケだ。
これで本当にいいのか?。グローバル化という言葉があるが、社会認識も、一個の人間としての見識や生き様に対する見解も無く、早口で英語がしゃべれるだけのグローバル化にどれほどの意味があるのだろうか?。いったい何を話をするのか?。こんな平和ボケした人間が次の世代の親になるわけだ。これに危機感を覚えない人間は盲目だ。日本社会の悲惨だ。
その神官見習い女子は、特に悪い子ではない。言えば努力するし考えようとするが、今まで危機感というものや自己練磨という認識が薄かったと善意に解釈するべきだろう。悪い子ではないが、深くも考えなかった。そういった人が大多数を占めている日本社会に、多数決で決める民主制が有用に運営できるのであろうか?。
自分を乗せたこの社会はどこへゆくのであろうか?。
中学程度の学力で読み解くことの出来る書物も理解できない高校卒業生。同じような人が他者に自らの意思を伝える力があるのであろうか?。それ以前の問題がある。思考力を鍛えていないということは、問題や危機に直面したときに思考できないという現実に突き当たるのは自然である。そればかりではなく、生活の中においても工夫する力に欠けるとの予想は容易であり、そういった現実は家庭生活または家庭を持った時に生活無能力という高い現実の壁が待っているのであり家庭の崩壊が想像できる。家庭の崩壊は子供に・・・と連鎖してくる。
連鎖が民度の低下の連鎖が大きくなって行けば誰に求めることは出来ない。
自分は大丈夫だと思っていらっしゃるかもしれないが、よく考えれば自分は良くても社会全体が、時を追うごとに悪化するわけであり真剣に取り組む必要がある。
さらに考えるならば、自由を口にすることはたやすいが、自由を維持し自由であることは難しい。どのような人であれしがらみがあり、それ無しでは人間社会で生きていくことは困難である。自由と同じで安全というものも、維持が困難な一つでありいつも安全があると思ってはならない。
人間としての尊厳と同じに社会を向上させる役目を果たすことが大事である。そういった心得や学び、または取り組みをなして行くことは人間として当然であり誇りである。
人間としての誇りを理解しないものは自らの尊厳を放棄しているに等しい。
この論考を読んで感じるところがあれば、すなわち霊性を持つ人であり心ある人である。
人間は自ら努力しなければ無能となるは必然であり、努力を重ねるは有能であり神々の光が後押しするのである。絶望するのは全ての算段が尽きたときでよいのだ。矢つきて太刀が折れるまで・・・いや人生の意義と格闘できるものが残っている以上、戦い続けるが美しい。
楽しみや楽ばかり追っている者たちよ、そしてその後ろで操る悪霊たちよ。わたしはあきらめない。まだ人の善なる魂があるかぎりあきらめることはない。闇は光より生まれし。しかるに光は闇よりは生まれぬ。光ありて闇はあるとぞ知れ。
心ある者たちよ。あきらめる無かれ。