A那須与一の戦功

与一源氏に参戦 治承4年8月(1180年)源頼朝が伊豆に兵をあげた。弟の義経が兄頼朝をたすけて参戦、
陸奥、藤原秀衛の館を出発、鎌倉に向かい、白旗城で義兵を集めていた。
与一の父資隆が、十郎為隆と十一郎与一宗隆を家来に懇請し、部下として参戦した。

屋島の戦い

 源義経の軍勢150騎ばかりであったが、猛勇武蔵坊弁慶、伊勢義盛、など精悦つわものばかり、その中に与一宗隆もあった。
 源義経軍は、元暦元年(1185年)2月17日午前2時、海部の津(大阪市)から5艘の船で出発、2月18日朝、三日かかるところを一日と四時間で漕ぎ着け阿波勝良の浜(徳島県)に上陸し、休むことなく在地の平家を蹴散らし、坂野あたりから大阪越えの難所を突破、讃岐・引田で小休止、さらに急進19日午前8時には屋島に到着、源氏の大軍と見せかけ牟札高松の民家に火を放ち奇襲し、平氏の館をことごとく焼き払い安徳天皇の行在所を襲い、平氏は船で海に逃れた。
 軍船もたない義経軍は海上の平氏軍に総攻撃もかけられず19日も暮れようとした時、紅の袴着た女官が舟の艘頭に立ち、日の丸書きたる扇の的を射よと指し招く、判官義経が初めは、与一の兄・為隆を召したが、一ノ谷(ひよどり越)合戦で駒を痛め、自分も右肘を負傷し弓が引けず与一を推した。
与一に扇の的を射よと命じた。
 海に平氏の赤旗、陸に源氏の白旗の陣屋の中、駒を海に乗り入れた。北風の吹く中扇定まらず、国中の神祇、八幡、諏訪の神、海底の八大龍王が護りあらばと祈願して鏑矢を抜きだし、狙い放ちて要の一寸上を射切れば、要は舟に留まり、扇は舞い上がり海に落ちた。
 (扇は高倉帝が厳島神社参詣のとき奉納の平家の至宝であった。戦争礼儀の一つ、射落とせば源氏の勝、射損ずれば平家の勝と信じた)

 与一は兄弟の11番目の子、兄九男まで平氏に参戦していた。弟・宗晴は御房子(母違いの子)12番目。
那須与一の功績は大きく平氏滅亡へとつながり、源頼朝は全国五ヶ庄の報償の外、平氏に参戦し信州諏訪神社に隠れ潜んでいた兄弟を故郷、那須に戻ることを許した。
与一の兄弟 那須与一
藤原資隆

    ―森田太郎 ―光隆

        佐久山次郎―泰隆

        芋淵三郎  ―幹隆

        福原四郎  ―久隆

        福原五郎  ―之隆

        滝田六郎  ―實隆

        沢村七郎  ―満隆

        堅田八郎  ―義隆

        稗田繰九郎―朝隆

        戸福寺十郎―為隆

        ―十一番与一―宗隆

         ―十二番御房子―宗晴
与一は仁安元年正月5日高館城で誕生した。屋島の戦功後、藤原姓から那須姓を名乗る。


源頼朝公より、屋島の合戦で平家滅亡への軍功の恩賞として兄弟9人(平氏に加担)が信州諏訪神社に逃げ隠れていたのを許して、郷里下野国那須に返すと共に与一に五ケ庄を授った。
 本国と併せて十八万石の総領(相続者、地頭)になった。
須氏野に下る  時を経て、那須新助(清資)毛利に属し、天正10年(1583年)備中高松に出陣して
羽柴秀吉の大軍を迎え撃ち、更に慶長5年(1600年)には関ヶ原戦に出征し徳川家康勢と相対峙した。
 しかしともに戦い利あらず、関ヶ原合戦後、毛利氏滅封に伴い、那須氏は十蔵城を開城して野に下った。
那須与一が直接統治したのではなく弟・宗晴が来庄統治。その子孫が家系を継いできたのです。
宗晴は18年間在住の後、帰国。  備中国那須と下野国那須とは往来があった。