The Submarine Shrine〜 深海の崖の下〜
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                                                蜘蛛の神

 その地方には得体の知れぬ疫病が蔓延していた。近隣地域もそれを恐れ、援助
の手を差し伸べることがなかった。中央からも見捨てられたも同然の中、ばたばた
と人は斃れ、瞬く間に地域は荒廃の一途を辿った。それから数十年、湖畔に聳える
神殿もかつての威容はなく、虫や鳥達の住処と化して久しかった。

 鹿の女神に仕える神官タナラトゥはこの荒廃の中で生まれ育った若者だった。
 人々から信仰心が次第に失われても、この青年の敬虔な心は日々強さを増して
いた。タナラトゥは幼くして両親を失ったが、その地の神官の保護を受け、神への
忠誠に生きることを誓っていた。これは彼の生きる目的であり、手段でもあった。

 疫病は沈静化してはまた猛威を振るった。復興の歩みはその度に停滞し、犯罪
発生はいまや常態化した。
 タナラトゥはこれを邪教崇拝による天罰と決めつけ、自らが仕える女神への信仰
を取り戻すべく、手始めに邪教の主神の洞窟に住む蜘蛛の神排除を目論んだ。
 これを指導神官に打ち明けたところ思いがけない厳しい叱責を受け、彼の心は動
揺した。
 年老いた神官からすれば、邪神信仰こそ許せないものの、好き好んで災いを招
こうとしている若い神官の考えは理解し難かった。
 暫くして冷静さを取り戻したタナラトゥにも、己がやらんとしていることの意味がわ
かったが、まだまだ血気盛んな彼は独力でもやり遂げてみせると誓うのだった。

 それから数週間、神官としてごく普通に過ごし、計画について訊かれた時には
あの時は大それた事を考えたものだと笑って答えるタナラトゥがいた。
 その態度とは裏腹に彼が密かに実行していることは誰一人知る由もなかった。
  
 ある風の強い夜、タナラトゥは人目を忍んで湖畔の神殿跡に向かった。誰にも
見咎められることなく内部に入ると最深奥へ進み、力の集積場として作られた瞑
想の間に腰を下ろした。彼は神官に伝わる幻視の秘術を開始した。意識を拡散し、
合わせて呼吸を緩やかに長いものに変えていった。

 やがて額から風が吹き込むような感覚が現れ、それと共に閉じた目にぼんやり
とした光が見え始めた。若き神官が光に己が問いを投げかけると幽かに光景が映
し出された。蜘蛛の神について意識を集中していくにつれ、光景は鮮明の度を増
した。
 今や肉眼で見るのと寸分違わぬ視界がタナラトゥを異界へと導いた。

 人間に似た知的生命体が集まり暮らす地があった。その生物の中に人間の世界
では魔導師にあたる者がいた。彼女はひたすら世界の仕組みを解明しようと努めて
おり、長期間に及ぶと予想された仕事に耐えられるように、自己を半不老化していた。
 その結果、体が次第に変容し、腹ばいの姿勢に適した物となっていた。同胞と
隔たった姿になっても彼女の探求は続く。都市が古びて様相を変えても、ついに
は誰も居ない廃墟となっても未だ魔道の完成には至らなかった。

 タナラトゥはここで瞑想から覚醒し、今幻視したことを忘れないように手早く詳細に
記録した。もう夜明けが近かった。彼は帰路を急いだ。

 この日から連日探求が続いた。

 魔導師だった大蜘蛛はうず高く積み上げられた石版に一枚一枚目を通していた。
タナラトゥは意識を集中すると石版に刻まれた文字ないしは文様を一文字漏らさず
書写しようと懸命に右手を動かした。

 ある夜、タナラトゥは蜘蛛が不快な音をたてた時、空間が揺らいだのを目撃した。
それは捩れるようにしながら長く延びていった。
 空間の捩れもしくは次元の狭間は灰色がかった太い紐に似ており、魔導師だった
者は洞窟の空間所狭しと捩れを生み出し、やがてそれは蜘蛛の巣情に見えるよう
になった。蜘蛛としか見えない生命体は巣の上を忙しく行きつ戻りつしているのだっ
た。まさしく空間そのものに作用する妖しい術の完成に他ならなかった。
 タナラトゥは衝撃を受けたが、同時に蜘蛛の神を打ち破るための法を正確に見定
めていた。
 
 夜毎行われた幻視により彼の手元には膨大な文書が積まれていた。幻視は時系
列に沿ったものではないため、彼は充分に検討して編集を行わねばならなかった。
 こうして出来た書をタナラトゥは肉食獣の皮で装丁し、戯れに『灰石文書』と名をつ
けた。

 タナラトゥは、幻視の内に読み取ったおぞましき書と神官の持つ知識とを総動
員して、蜘蛛の神を打ち破る術を得ようとした。作業は難航の一字につきたが、
数ヶ月を要した結果、ついに幾つかの呪文と護符を作り出すことに成功した。

 数日の後、最も星辰の力の強まる時に置手紙を残し、タナラトゥはただ一人邪
神の住む洞窟を目指して峻険極まる山を力強く登りだした。有効な呪文の候補は
既に完璧に暗記し、護符は首に下げていた。彼の行く手を遮るものは何もなかっ
た。

 切り立つ山を登りごつごつした洞窟を下ること数時間、タナラトゥの眼前に広
がるのは広大な空間見渡す限りに煌き重なる、途方も無く巨大な蜘蛛の巣群だっ
た。蜘蛛の神と巣は安全な幻視の内とは違い、剥き出しの脅威そのものと言えた。
 遥か彼方には今まで全く見たことが無い何物かが巣の上を動きまわっており、
彼の不安をいやがうえにも増大させた。

 ここにきて流石にタナラトゥの心にも迷いが生じたが、女神への祈りの章句を
繰り返してそれを振り払った。タナラトゥは手にした儀礼用打楽器を思い切って
打ち鳴らした。

 邪神の忙しない動きがぴたりと止まった。顔がタナラトゥに向けられると狡猾
そうな冷たい小さな眼が幾つも輝いた。
 嫌な汗がタナラトゥの体に何筋もの川を作ったが、彼は深呼吸をすると最初の
呪文を詠唱した。

 蜘蛛に何の動きもなく、彼女の巣にも変化は無い。選択を誤ったことは明白だ
った。
 急いで次の詠唱にかかるタナラトゥ、しかし期待した効力を発揮した様子はな
い。
 呪文は残り二つ、どちらを選ぶか僅かに躊躇した瞬間、蜘蛛は予想を上回る速
度で音も無く彼に迫った。

 突発的事態に焦ったタナラトゥは最も長く難解な呪文詠唱にかかってしまった。
もはや詠唱の独特の節回しもなく、ただただ早口で喚き散らすばかりの彼の視界
には蜘蛛の気味の悪い毛むくじゃらの体がいっぱいに広がり、無慈悲な死が抱擁
の手を彼の背後に回した。

 詠唱が終わった。タナラトゥはその瞬間を永遠にも感じた。実際には瞬きをする間
もなく全ては終わっていた。
 洞窟内に張り巡らされた次元の狭間、すなわち蜘蛛の巣は瞬時に消滅し、邪悪
な蜘蛛はすとんと落下して闇に消えた。

 タナラトゥはよろよろと崖際に駆け寄ると、女神の加護に感謝し勝利の雄叫びを
あげた。
 その声はそのまま恐怖の絶叫へとすりかわった。
 右足首に感じた激しい衝撃が、彼を奈落の底へ引きずり込んだ。
タナラトゥは意識を失う前に見た。足首から遥か下方へ太い蜘蛛の糸が真っ直ぐ
に延びていた。
 これこそ蜘蛛の神たる所以だった。

 以後、帰らぬ神官の噂は大陸中に伝わり、女神への信仰は次第に廃れていった。
 邪神の崇拝者と鹿の女神の神官が揃って失踪後はさらに拍車がかかり、一世紀
の間、蟇の神を奉ずる邪教が大陸を支配した。

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